ちょっと先日(といっても結構前ですが…)大きな怒りと共に身につまされて深く考えなくてはいけないな、という事がありましたので、問題提起として今の考えを書き留めておこうと思います。
そして、今回の内容は長くなるので小テーマ毎に記事を分けていきます。
最初に大きなテーマから言うと
世の中には人の本質から目を背けて語る言論が多すぎる
という事です。
一言で人の本質と言っても様々な要素がありますが、今回の記事においては「人は何かを護るために暴力を行使する」という事です。
今回の記事のきっかけはオリンピック開催直前の開会式直前の辞任、解任のごたごたの話です。
初めに断っておくと私はラーメンズのファンです。
これだけで察しがつく方は居るでしょうが、その先の話もあるので順を追って話しましょう。
そもそもオリンピックそのものが、コロナ禍での開催は勿論の事、招致の段階で色々と賛否がありましたが、正直私は割と一貫してオリパラへの認識は「どちらでも自分には影響しないから好きにやればいい」という物でした。
今思えば、あまり考えてはいないなりに人の本質にあったスタンスだったとも言えますが、簡単に言えばオリンピックそのものにどうしても日本で開催してもらいたい理由も、何が何でも招致したくない理由も無かったので、「自分事で考えている人達で決めてくれればいい」という立場でした。
ただ、この関係のない立ち位置から一気に思考がオリンピック引き寄せられた出来事がありました。
それが、オリンピック開会式の総合演出を任されていた小林賢太郎氏の解任です。
理由としては20年以上前に彼がコントの中で「ホロコースト大量虐殺ごっこ」という単語を使った事にユダヤ人の団体から抗議があったためです。
最初に説明しておくとこのコントのネタの中での文脈としては「教育番組では絶対に出てこない悪い単語」としての扱いであるため、ホロコーストを肯定するような文脈ではないですし、抗議があるはるか以前のインタビューにおいて小林賢太郎氏はそういった誰かが傷つく可能性のあるネタの作り方を良くないものと反省し、違う形のエンターテイメントの道を模索しているという発言をしています。
ただ、この件に関して、ユダヤ人の団体から声が上がるという事自体は しかたない事でしょう。
そのコントにおけるホロコーストの文脈が、ネタするのが不適切な「悪事」の象徴としての物であったとしても、そういったおちゃらけた場に出すこと自体が良くないとその団体が判断し攻撃するのは、簡単に言ってしまえば「ユダヤ人の癒える事のない心の傷に安易に触れさせない」という為に必要な事です。
あえて誤解を恐れずにこの抗議についての私の評価を述べると、自衛の為の一種の暴力の正当な行使であり、必要悪とも言える見せしめの類です。
発言の悪意の有無ではなく、現象に対して即座に行動しなければ、同じように軽い気持ちで冗談にするという事を黙認する事になってしまうからです。
この説明は正直反感を買う人も居るでしょうが、私はきれいごとを述べて適当な人情論に持っていくよりも遥かに誠意ある評価だと考えています。
過去の記事にも書きましたが、暴力はそれその物が悪なのではなく制御されずに不当な行使をされることが悪なのです。
このユダヤ人団体は公権力という訳ではありませんが、ユダヤ人というコミュニティを見た時に、その影響力を背景にした上で、対外的な悪評からコミュニティを護るための暴力装置として機能している訳ですね。
こうやって社会の秩序を保っている以上、人の本質と「暴力」は切り離せないものなのです。
今回はここまでにしましょう。
続きはまた次回お伝えします。
