今回の内容は過去に書いた争わない考え方であったり、炎上から身を守るであったり、対立構造を作らない考え方と近い、ぶつかり合わない為の思考の仕方についてなのですが、切り口が違うお話しです。

 

 よくこのブログでも良く取り上げているSNSの炎上等に関して、今までの記事ではざっくり言うと自分自身の思考のレベルを上げて、同じ土俵に立たないと言うスタンスでした。

 

 高い思考レベルを持っていればそもそも自分から攻撃的に接するような心理状況からは自然と外れていくものです。

 

 では攻撃的な接し方をしてしまう心理状況とはどうやって生まれるのでしょうか?

 

 ここでタイトルに繋がります。

 

 人を叩く事と期待すること、一見すると全く違う事に思えます。まずは辞書的に意味を掴みやすい期待から掘り下げてみましょう。

 

 期待という言葉をGoogleで検索すると以下のような説明が出てきます。

 

 ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。

 

 基本的に他人にせよ、神様や運にせよ何か自分以外の存在に頼っているという構図な訳ですね。

 

 期待が大きい物事というものはそれだけ心が寄りかかっているという風に言い換えても意味が通ります。

 

 これは例えば物理的というか現実に置き換えてみると非常に危険な事が分かると思います。よくある座ろうと思っている所で椅子を引くイタズラで考えてみれば、絶対にそこに椅子が有ると確信している=期待しているほど衝撃が大きいという事です。

 

 心理面でも期待を裏切られた衝撃というものは大きいのですが、如何せん外傷として残るわけではないのでそこに気付いていない人も多く居ます。

 

 これが無意識に攻撃性につながるのです。

 

 次はSNS的な意味で人を叩く=心理的な攻撃性に目を向けてみましょう。Twitter等でもよく見かける人を叩く行為というものは、見かけ上の言葉遣いとは別として怒りが乗っている事がほとんどです。

 

 ではそもそも怒りとは何なのか?これは私の持論というか主観的な捉え方ですが、その正体は防衛反応だと考えています。

 

 身体的にせよ心理的にせよ、何かしらの自分を脅かす存在を排除しようという働きです。

 

 これは様々なパターンがあって、例えば自分に対して直接攻撃的な事をする存在に対してもありますが、嫉妬の様な感情も一種の自分の居場所が無くなることへの防衛反応として怒りが発露している考えられます。

 

 弱い犬ほどよく吠えるという慣用句があります。これはある意味筋は通っていて、要するに身体が小さく弱い犬はそれだけ危険を感じる対象も多くなる訳で、それ故に威嚇のために吠える機会が多くなるのです。

 

 

 さてここまでの話で何が言いたいのかを纏めると

 

 誰かを叩く人は無自覚にその相手に勝手な期待をかけてそれが裏切られた事に傷ついている

 

 という事です。

 

 傷ついているとは書きましたが、特に程度の低い誹謗中傷については基本的に同情の余地は有りません。そして無自覚勝手な期待がポイントです。

 

 寄りかかっていることすら気付かず、当然のことだと思ってしまっている前提条件があります。当然だと思っている以上その前提が本当に正しいかどうかの精査が全く為されていないんですね。

 

 その上で期待通りに事が進まないとそこにショックを受けて攻撃的な感情が生まれてしまうのです。

 

 これが私なりの叩く事と期待の関係性です。

 

 言葉の難しい所で期待をすること全てが悪いことでは有りません。場合によっては誰かを励ます事もあるでしょう。

 

 大事なのは自分が何に対して期待を寄せているのかしっかりと把握すること、怒りを覚えたときにそれが自分の勝手な期待でなかったか、一歩踏みとどまって考えることです。