導入編回答その1に続いて今回は対立構造を出来る限り作らない思考の繋げ方についてです。

 

 まずは事例として上げた管弦楽部と吹奏楽部の対立構造をおさらいします。

 

 

管弦楽部は文化部っぽい吹奏楽部は運動部っぽい

管弦楽部にはコンクールが無い吹奏楽部にはコンクールがある

管弦楽部はちゃんと基礎練をしない吹奏楽部は基礎練をしっかりする

管弦楽部は上手い人の譜面はきれい吹奏楽部は上手い人の譜面が汚い

 

 以上の4例に関して、それぞれ私なりの考え方で対立構造を崩してみます。

 

・果たして本当に対立なのか

 

 ①について、文化部、運動部という括りを少し具体化してそれぞれの枠組みに含まれる部活を挙げ直してみます。

 文化部

文芸部、書道部、将棋部、囲碁部、社交ダンス研究部、講演部、美術部、華道部、演劇研究部、管弦楽部、邦楽部、吹奏楽部、詩吟部、ギター部、マンドリン部、探検部

 etc.

 運動部

陸上部、野球部、テニス部、サッカー部、空手部、柔道部、弓道部、馬術部、卓球部、レスリング部、パワーリフティング部、スキー部、アメフト部、体操部、水泳部、山岳部

 etc.

 以上は私の大学にあった部活動のうち、比較的耳馴染みのありそうなものを抜粋したものです。こうして所属団体を書き出して見ると一口に運動、文化という括りに分けただけだと同じ分類とされてても違いが大きいことが分かると思います。運動部にせよ文化部にせよ、個人で取り組むものと団体で取り組む物で性質は違いますがそれも1つに纏められていますし、2つの枠組みの中では立ち位置が曖昧になる部活もあります。

 例えば運動とは何かを考えて、「身体を動かすことを主とする」「試合やコンテストで勝敗が出される」とするのであれば文化部に含まれる社交ダンス研究部はかなりの運動量がありますし、大会での順位付けも行われています。視点を変えて見れば他の文化部、運動部と比べるなら体操部等と並べた方が性質が近いように思えます。

 この様にそもそも運動部、文化部の分類そのものがぼんやりした枠組みであると理解すれば運動部っぽい、文化部っぽいという対立構造そのものもぼんやりしていてあまり意味を為さないものだと思えます。比べるならもっと洗練された要素で行うべきという事です。

 余談ですが私は未だに母校の山岳部探検部が運動部と文化部で分かれている理由が分かりません。ただ、同じ括りの中にあったら合併している気もします(笑)。

 

 ②に関して、①と近い発想になりますがそもそも「コンクールの有無は対立として扱うのに相応しい要素か?」という所になります。運動部に関して言えばほぼ勝敗が出るものと見ても良い(山岳部の様な例外もあります)ですが、文化部においてその活動の目的は様々です。

 文化部の中にも将棋や囲碁の様に比較的はっきりと勝負が有るものもありますし、美術部や書道部等コンクール等も有るし、展示会の様な優劣を決めない場での発表でも十分成立するものもあります。

 吹奏楽部においてもコンクールのみが目的ではなく、演奏会は基本的に行っているものだと思います。前回の記事にも書きましたが、どちらかというとコンクールの有無はジャンルではなく組織力の問題ですので活動の本質という意味ではコンクールは大きな意味は無いのでは考えています。活動の本質から考えるのであれば両者ともに積み重ねとそれの発表が本質です。コンクールはあくまで発表の場の一つであり、確かに力が入る場面かも知れませんが対立の要素としてはずれています。

 

 ③に関して、2つの考え方があると思います。1つは前回の記事でも触れた管弦楽はパート毎に奏法の基礎の違いが大きいために合同で行う音楽の基礎の時間が取れないという考え方です。仮に同じ活動時間が与えられ同じ熱量で取り組んだ場合、共通する基礎の多さでは発音原理がほぼ統一されている吹奏楽の方が合同で行える基礎練の数が多くなるのは必然であるため基礎をしっかりやっている印象が付きやすいという考え方です。

 もう一つはある意味身も蓋もない考え方ですが、管弦楽部だろうが吹奏楽部だろうが上手い人は基礎練をしっかりやっているという事です。ただこれは真理だとも言えると思います。

 特に私は高校の部活は比較的弱小とも言える所で指導体制もしっかり残っておらず、その年やる曲にかなり偏った練習をしていたというのは間違いありません。しかし、同じく高校から楽器を始めた人でも身についてる基礎のレベルが遥かに高い人はゴロゴロいます。逆に言えば吹奏楽部出身だからといって基礎はほぼなくセンスだけでやっている人もゴロゴロいます。そもそも基礎練の多寡を部活のジャンルに求めること自体が間違いだったのです。

 

 ④に関して、これは同じ条件で比較しているのか?という視点で見ると印象が変わると思います。前回の記事と重なりますが、発表の場に向けた熱量が同じだったとしても自分だけの物と他人と共有する物では書き込みをする分量は変えざるを得ないと思います。

 また物を大切にするという観点で見ても、人によってはその演奏会で使った譜面をその演奏会の思い出として残す人もいると思いますし、同じ曲を演奏する機会がある時に1つの譜面を使い続けていくという大切に仕方もまた正しいと思います。一期一会でその機会の思い出にする方はその時の思いを全てぶつけるほうが良いと思えますし、同じ譜面を長く使い続けるなら様々な状況に対応出来るように要点を最小限に記した方が良いと思います。

 同じ人が違う扱いをした場合は優劣があるかも知れないですが、人が違えば表現の仕方は違うのです。

 

 以上の様に対立構造というものは視点を変えると意外と簡単に崩れる物ですし、否定して情報を遮断するよりも肯定できるポイントが見つかるまで自分なりにでも分析した方が理解が進みます

 肯定的に捉えるということはなにもその対象が良いことだと思いこむことではありません。

 一定の理解がおける余地を自分で作る。そう心がけるだけで不要な対立の大部分を回避することが出来ます。皆さんもこの思考を役立ててみてください。