世の中のものさし≠自分のものさし
「イギリスでは『仕事を替えるんだ』って言ったら
『おめでとう!次は何やるの?』って言う。
なんで日本は『えーなんで!もったいない!』とか
『辞めてどうするの?あてがあるの?』って言うの?」
「仕事のために人生があるんじゃない、
仕事は人生の一部ではあるがすべてではない」
「会社や世間体は自分に何もしてくれない」
もうこれはがつんと頭ぶたれたような、
冷や水かけられたような、
崖から突き落とされそうになったような、
そんな衝撃だった。
そんな風な考え方があるなんて、
考えたこともなかった。
これは、
大学在学中から働き始めた大手出版社を辞めようか続けるか、
悩んでる時の話。
その時の悩みといえば
「仮にも大手、入ろうと思って入そう簡単に入れるわけじゃない」
「今辞めたところでキャリアにもならなければスキルも身についていない」
「辞めたところであてがあるわけじゃない」
この3点だった。
でもこれ、
今思えば自分の考えじゃなかった。
だって辞めようって浮かんだその時点で、
自分の新しい人生について考えていたはずで、
より良い姿を描けていなければとりあえずは辞めようと思わなくなるはず。
で、はっとしたのが、
この3つとも、
すりこみだったんだ!
ってことに気づいた時。
学校で教わるような、
世間が語るような、
そんなイメージに洗脳されてただけ。
自分の気持ちは、
「でも楽しくない、
こんな生活してても何も見えない、
幸せ感じない、
続ける先に何も描けないままで続けたって
今が幸せじゃなければ未来が幸せなんて思えないし、
そもそも今が幸せじゃないってわかりきってることを
続ける意味がわからない」
って見えていたにもかかわらず。
でも冒頭の3つの言葉で、
すとんて腑に落ちた。
だって自分の人生なのに、
なんで人に左右されるんだろう?って。
その人の人生では、
辞めようと思った時に辞めないで至った今が
よかったと思えているからこその言葉かもしれないけど、
それが自分にあてはまるとも限らない。
というかそもそもたった22年間、
そのうち意志をもって生活したたかだか5年ぐらいで、
一生を決めろ、
一生が決まる、
なんてへんな話。
道徳の授業や歴史の授業では、
「不屈の精神で…」とか
「あきらめない」とか言うのに、
いざ社会に出る時、出た時には、
「安定こそすべて」
「我慢してあたりまえ」
「忍耐してこそ」
「仕事はおもしろくないもの」
のように絶望を表すような言葉ばかりを
人々は投げかけるのだろう?
単純に疑問。
誰も、小学生の時に教えられたような、
「努力すれば夢はかなう」とか
「あきらめないことが大事」とかって言葉はかけないよね。
変わることを異様に恐れる社会、の存在を
つくづく感じる。
タイに行って、日本では“途上国”とされる東南アジアの国で、
あんなにも幸せに暮らしている人々と触れ合って、
私のそれまでの価値観は崩壊。
自分が何を望みどう生きたいのか、
をとことん考える機会だった。
想定内で安全牌を選ぶ人生には、
私は興味がないんだなーって同時に思った。
自分が自分らしくいるための手段としてのキャリアは望むかもしれないけど、
そこを目的とすることや判断基準にすることはないだろうな、って。
(ちなみに予断だけど…
帰ってきてから、
数え切れないほどの仕事が世の中にあって、
だから100%やりたい仕事(当時の私にとって編集と旅に関連する仕事)は
ぜったいある、
って信じて疑わなかった。
ちゃんと、見つかった。あっさり決まった。)
世の中の尺度で測るのはもうやめた、ってその時思った。
自分の人生は、自分で決める。
自分の価値基準で生きる。
今思うのは、
もっと海外に出ていろんな価値観に出会って身を置いて、
もっと自分が自分の足で人生を謳歌することを貪欲に追っていきたい。
日本に落ち着いて3年、あの時100%コミットした選択も、今はそうじゃなくなってる。
だからもう一度リセット。