qui est-ce que je suis? -14ページ目

人は見たいようにしか見られない

「人は見たいようにしか見られない」



これは私にとって衝撃の言葉だった。


今でも覚えてる、この瞬間を端から端まで。


ラオスのある街のゲストハウスにいたある夕方のこと。

日本から持ってきた旅本を読んでて、
目に飛び込んできたのがこの言葉。


そしてこの言葉は、
後のカンボジアでの体験で、
くっきりと実感を伴って私の中に落ちていった。





「かわいそうだねーあの子たち」



カンボジア、シェムリアップのトンサレップ湖にて。


子どもたちは、

日本のアニメキャラクターが描かれた破れた茶色のTシャツを着て、

(日本からの古着、すくなくとも洗濯機はない、
 新しいものを買うという概念もおそらくない、か経済的に不可能)、


でも子ども同士笑い声をあげながら外を走り回っていた。


その様子を井戸端会議しながら眺めるおとなたちがいて。


その光景を見た時、

「あー昔の日本みたい」

って思った。


人と人とが近くて、

日が出ている頃は外であそんで、

見守るおとながいて。


だれもDSの画面を見入ったり
ケータイの画面に夢中になったりしてなくて。


家族とか近所づきあいとか、
そういうものが集約されているような原始的な光景に、


私は胸がほわっとあったかくなったような感覚でさえいた。



そんな時に耳に入ったのがこの言葉。


なにをもってかわいそうって言っているのか、
わからなかった。


お金がなさそうだから?
着ているものが汚いから?
洗濯機がないから?


その時まっさきに思ったのが、


「人は見たいようにしか見られない」


というブッダの言葉。


学校では、

東南アジアは貧しい、

と伝えられる。

その概念が頭にあって、
その先入観を通してしか現実が映らないんだなーって。


フラットな気持ちで物事を見つめるって、
情報過多のこの時代で難しいこと。


事前情報なしに何かに接することの方がめったにない。


だからこそ、意識してクリアにしていないと。


何かを見る時、


それは本当に自分の声なのか?自分の感想なのか?


誰かの声を自分のものとしちゃってない?


それを意識するようにすると、


自分がいかにメディアや著名人の言葉をあたかも自分の思いであるかのように

とらえちゃってるか、が染みる。。



だから、


「見たいようにしか見られない」


この言葉は、自分の精神状態バロメーターにもなる。


どう見たいのか、それを明確にすると、


自分の素直な声がわかるんだよね。



いつも自戒になるこのブッダの言葉。