こんばんは。
今回は兄弟の集いの場に参加するまでの過程について書いていければと思います。
稚拙な文章ですが、少しでもこの記事を通して集いの場に興味をもっていただきたいのと、併せて門を叩く手助けになれば幸いです。

 

この記事を読んでいる皆さまの中には、聖書を手に取って読み、その内容を深く知りたいとネット検索をしてミカエルさんに出会ったという人や、ニューエイジ思想の欺瞞やコロナ問題から抜け出し、この世の真相をある程度理解した上で心理の探求を進めていくうちにミカエルさんの記事に巡り合ったという方がいるのではないでしょうか。そしてミカエルさんの記事を読んで主イエスの真理を悟り、神の律法遵守と安息日の重要性を理解して行動に移そうと努力している方は少なからず存在していると思います。例えば、(金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日を守るためにゲームや世俗の趣味に時間を費やすことをやめて聖書を読むようになった)などです。不肖も、ミカエルさんの記事を初めて読んだ時以来、記事で学んだ律法を守るため、普段の生活で体現していこうと努力し、少しずつではありますが安息日であったり、普段の衣装を和服に変えたり髭を生やすなどの外見上の身なりの部分から心の思考まで変化させてきました。しかし、律法を完全に遵守するためには主イエスが新たに授けてくださった掟である兄弟同士で愛し合いなさい(ヨハネ十三章三十四節)と言う律法が守れないと思い、その時決心して集いの場の門を叩かせていただきました。

 

ここで注意したいところが律法を守る前提としてその動機が永遠の命に入るためであったり、地獄に落ちて苦しみたくないから等の利益信仰や本当は嫌だけど仕方なく守るという義務信仰も良くないことです。このことも、【真の聖書福音と預言】過去記事「神の御心を行う」で戒められております。一部引用させていただきます。

 

真のクリスチャンは、誰からも強制されずに言われなくても、自分から進んで喜んで行い、逐一周りに報告して自慢しないはずです。何もしていないと偽り者だから何かしないといけないと思って、心の中では嫌々だったり、義務感を感じて無理に善い行いをしたり、周囲の人から善い人だと思われたくてこれ見よがしにするのは偽善者です。

 

引用【真の聖書福音と預言(神の御心を行う)】

 

残念なことに不肖は集いの場に参加した当初、このような気持ちが心の奥底に住み着いており、兄弟同士で日々信仰を高めあったり、励まし合うために会話するのではなく、律法を守りたいがために会話するというような律法主義に陥っていました。これは主イエスが言われた放蕩息子の例え(ルカによる福音書 十五章十一~三十二節)の中に登場するのような心の状態で、所謂利益信仰でありファリサイ派の人々と何ら代わりありませんでした。それを集いの場にてミカエルさんにご指摘を頂き不肖は自分の過ちに気づきました。恥ずかしながら利益信仰はいけないことだと上記提示した「神の御心を行う」(真の聖書福音と預言)の記事を読み、理解していたつもりでいましたが何も学べていなかったのです。集いの場にて、たとえ参加したとしても自分を取り繕って見かけ以上のことをしようとしたり、少しでもミカエルさんや兄弟達から認められたいと思い虚栄心を働かせ自分をひとかどの人物と思わせようとする動機が悪で根本から間違っていることを学ばせていただきました。

 

旧約聖書 サムエル記上 十六章七節 

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。

 

上記の聖句より人の心の中の思いを見通す神にも義とされません。

 

このことはパウロが十二使徒に憧れて自分も同じように使徒となって大勢の人から認められたいと思うことと、似通っている部分があると思います。ここでも真の聖書福音と預言から「偽使徒パウロの反キリスト教義 二」より一文を抜粋してご紹介いたします。

 

パウロ自身は僭越にも「事実、我があの使徒たちよりも大きく劣るのは何も無いと思う。」(コリント二 十一章五節拙訳)と言い、同書十二章十一節でも繰り返し述べて自己評価を高くしており、同じ手紙で二度も自分自身を十二使徒と肩を並べることを言う高慢さが見える。まったく謙虚やない。パウロは大いに高ぶっており、これでは主イエスの「但し、自分を高めようとする者は低くされ、自分を低くする者は高められるだろう。」(マタイ二十三章十二節拙訳)の教えを守ってるとは到底言えへん。

 

引用【真の聖書福音と預言(偽使徒パウロの反キリスト教義 二)】

 

今もそのようなの邪な心や高慢さが現れようとするので素直に自分の罪を認めて清い心をつくり、正しい霊が与えられ、不義を悉く拭い去ってくださるように主イエス・キリストに祈ることは欠かせません。祈りの聖句を引用します。

 

ヨブ記 二十二章二十七節 

あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。

 

詩編 五十章十五節

悩みの日に我を呼べ、我はあなたを助け、あなたは我を崇める。

 

詩編 六十六章二十節

神をたたえよ。神は我の祈りを退けることなく慈しみを拒まれません。

 

箴言 十五章八節

正しい者の祈りは彼に喜ばれる。

 

マタイによる福音書 二十一章二十二節

また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられる。

 

ヤコブの手紙 五章十三節

あなた方の中に、苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい。

 

ヨハネの手紙一 五章十四節

すなわち、我が何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さる。

 

ヤコブの手紙 五章十六節~十七節

だから、互いに罪を告白し合い、また癒されるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、我等と同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りをささげたところ、三年六か月の間、地上に雨が降らなかった。

 

祈りによる効果は絶大です。使徒言行録十二章一から十六節に使徒ペトロを殺傷するためにヘロデ王が牢屋に監禁しましたが、ヘロデが策略する計画は遂行できませんでした。その理由として五節に「教会では彼(ペトロ)のために熱心な祈りが神にささげられていた」とありその祈りが神の御前に届き、神が御使いをペトロのもとに遣わされペトロは救われました。この箇所から祈りには絶大な力があると分かり、どんなに大きな権力があったとしても創造主である神には逆らえないことがはっきり分かります。パウロ書簡の一つ、エフェソの信徒への手紙六章十八節に「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目を覚ましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りなさい」とあることからもキリスト者として常に祈ることは重要なのですが、祈り求める時にも上記に上げた悪い動機で祈ることは禁物です(ヤコブ四章三節)。

 

話を戻します。不肖自身集いの場に直ぐに参加したのかと言われればそうではございません。聖書を手にとってから、一年半の時を費やし初めて門を叩かせていただきました。ではなぜ、これほどまでに多くの時間を浪費してから門を叩いたのかといいますと、原因は大きく分けて二つございます。一つ目の原因が聖書一回目の通読を後回しにし、その他世俗的なことに時間を費やしていたこと。二つ目の原因として集いの場に参加したいけれども今の自分がまだそこまで成長できていないと判断していたからです。まず前回記事の過程で聖書を手に取ったものの読み進めるための努力が著しく欠如しておりました。創世記や出エジプト記までは物語形式で書かれているので、楽しく聖書を読み進めることができたのですが、レビ記あたりまで読み進めていくと内容が物語形式から罪の規定、人口調査や務めの内容にかわるので読む気力が失われて一時期停滞してしまいました。焼き尽くす捧げ物の話や、穀物の捧げ物など初めて読んだときの感想として、「堅苦しくて聖句に書かれている内容も上手く頭で想像できないからこれは読むのに時間がかかりそう」でした。二回目の聖書の通読を終わらせた不肖の感想としてこのときの自分に何か言えるとしたら、「レビ記や民数記などのモーセ五書には罪についての規定が事細かく書かれているからもっと真剣になって読んでくれ」とこのように声をかけると思います。しかし、これは聖書を通読して内容を大まかではございますが一通り理解しているから言えることなので読み始めたころの自分に勧告しても伝わらないのかもしれません。ですが聖書の中でも序盤に記載されていることから、レビ記や民数記といった書は極めて重要で決して読み飛ばしてはならないのです。もちろん最初に記載されていないからといって他を蔑ろにしてもいいなんてことではありません。さて、そんな停滞期でも学べたことはございます。それは聖書を読むにしてもただ単に字面を追っているだけでは何も頭に入らず、読んでいて苦しいということ。学校での国語の授業で物語や小説などを読みましたが、やはり楽しい内容のものは直ぐに頭に入ってきて、その時のテストの点数も高い傾向にあり、逆に複雑で頭の中で想像するのが難しい評論文の場合は飽きがきて、その内容を理解しようと努める努力を怠りその結果テストの点数も低かった印象があります。今回の事象に当てはめてみると、創世記と出エジプト記まではアダムとエヴァの誕生からモーセを筆頭にイスラエルの民をエジプトから救出する内容なので比較的その当時の場面が想像しやすく、スラスラ読み進めることができたのですがレビ記に突入したあたりからは、国語の授業で言う竹取物語のように古文を現代語訳で訳してからでないと、内容や意味が理解しづらいのと似たような印象を持ちました。しかし、古文も単語や文法が理解できるようになればその内容を想像して読めるのと同じで聖書も古文と同じようにまずはその言葉の意味だったり特性を理解して頭のなかでその現象や物が上手く想像できるようになることが聖書理解の基礎なのだと思います。それと、一回目の通読時点では時間をかけるべきではなく早めに通読を終わらせて全体像を把握することが重要です。不肖は一回目の通読の時点で内容を事細かく理解しようとしたために読むスピードが格段に遅くなり、その結果通読するのに時間が大幅にかかってしまいました。上記にも書いてある通り一度で内容を理解しようと思わずにまずは聖書全体像を把握して、ある程度知識がついてから再び読むことにより聖句内でわからない部分を別の箇所と照らし合わせることもできますし、ミカエルさんの記事の解説をより正しく解釈することが可能になるのだと思います。その他にも聖書を読むことを妨げようとする自分の中の自我が沢山あり、聖書を開くと毎度のようにその欲が襲ってきます。例えば、ゲームをしたいだったり、ユーチューブ動画をみたい等です。このような欲を自制して聖書を読む時間を作ることも不肖にとって大変な苦行でした。

 

以上のような理由で通読時間が多くかかってしまいました。それでも、一回目の聖書を通読できたときの達成感は大いにありました。今まで生きてきた人生で聖書ほどに内容の密度が濃く、情報量が多い書物を味わったことがなかったので感動したのを覚えています。その一方で聖書を通読したはいいものの自分の不信仰故にまだまだ集いの場に参加する資格がないだろうと思い、もう少し自分で納得が行く水準にまで成長したら門を叩こうと言い訳して集いの場を避け、自分独りよがりの信仰に甘んじていました。そのほうが格段に楽で、思い煩いも少なくて済むと思っていたのです。ですがそんなある日のこと、心の奥底で「このままで本当にいいのか」と疑問が湧いてきました。自分一人で信仰を続けることはほぼ不可能に近く例え間違った思考や解釈をしていたとしてもそれを指摘してくれる人もいないので自己陶酔し、高慢に陥り道を踏み外す可能性も否めませんでした。そしてようやく決心がつき、集いの場に参加するため個別宛メッセージをミカエルさんに送信しました。このような経緯で不肖は集いの場の参加に至りました。集い場にきてからも、自分が想像してた以上に大変でいかに今まで自分の信仰が怠惰で不足していたのかも痛感しました。ここでは書ききれませんが他にも集いの場で学んだことは沢山あります。


もしかしたら、皆さまが集いの場の門を叩く勇気が得られない理由として、ミカエルさんの厳しい説教を過去記事のコメント等でみて、自分がもしこのような愚かな質問をしてミカエルさんに怒られたらどうしようなどの思いを抱き、兄弟の集いの場に参加したくてもメッセージを送ってもし怒られたらどうしようと臆病な気持ちがあり、メッセージを送るまでに至っていない方がいるのではないでしょうか。不肖もつい二ヶ月前まではそうでした。もしこの記事を読んでいる方で過去の不肖と同じように集いの場の門を叩く勇気がでない方がいらっしゃいましたらそれは非常にもったいないことです。集いの場でのミカエルさんの言葉を引用します。「現代人の多くが叱責されることを嫌うてる。これは傲慢不遜である証拠や。自分が正しいと思い込んでる証拠でもある。叱責や注意を受けてるうちが華やで。」また、聖書の聖句を引用すると「愚か者は知恵と矯正を酷く嫌う」(箴言一章七節 ミカエルさん訳)「不遜な者は懲らしめられることを嫌い知恵ある人のもとに行こうとしない」(箴言十五章十二節)とかかれております。不肖も含め現代人の多くが叱責されることを過剰に避けたり、敏感に反応して逆ギレをおこしたりする人が頻繁にみられますがこれも高慢なのだと気づきました。いつまでたっても怒られることを避けていたら、もし自分が間違っていたとしてもそれを指摘してくれる人がいないので罪を犯し続けることになり、その人自身のためにもならないのです。叱責されるからこそ、自分の誤っている点を見つめ直し悔い改めることができますし、何よりも客観的に見た自分を知ることができます。客観的に見た自分の姿を教えてもらうことで、今まで気付かなかった自分自身について意識する機会も増え、視野を増やすことにも繋がるのではないでしょうか。自分の高慢さを取り除くためにも集いの場に参加することは非常に重要だと思います。そこでは様々な貴重な体験であったり、助言をいただけ、自分の誤っている思考や考えを客観的に指摘してくださるのでどこが間違っていたのだろうかと自分を見つめ直す機会が圧倒的に増えます。なので、自分勝手思考が改善されると思います。参加しなければいつまでも傍観者のままで一向に成長できません。

そして最後に、最初にも取り上げましたが再度注意していただきたいことがございます。集いの場に参加すると言っても掟だから交流しないといけないと思い義務感で入ることはお勧めしません。そのような動機で参加したとしても、後々辛くなり、脱落する羽目になると思います。兄弟と交流しないといけないではなく自然と交流したいと思う動機も非常に大切です。それと、世の教会と同じように楽しく交流するために集いの場に来ることもお勧めしません。主イエスは「お互いに愛しなさい」(ヨハネ十三章三十四節、十五章十七節)とご命令され、「楽しく交流しなさい」とは一言もおっしゃいませんでした。最も重要な掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛する」(マタイ二十二章三十七節、マルコ十二章三十節、ルカ十章二十七節、申命記六章五節)ことなので、集いの場に参加する目的が「楽しむ」であってはならないのです。これも集いの場にてミカエルさんから教わった内容です。また集いの場だけで留まらずその先の教会を目指す者でなければならないことも肝に命じておいてください。

 

以上になりますが、集いの場で成長できる点は数多くあるので是非決心がつき、全てを捨てる覚悟ができた方は集いの場の門を叩いてみてください。以下に集いの場の手続きの詳細を載せて置きますのでそちらをよく熟読してください。

「兄弟の集いの場」に関する告知兄弟の集いの場に関する告知 再掲

 

行動しなければ何も始まりませんし、変化もないので大損です。

不肖もそうですが行いが伴う信仰が日々全うできますように。最後までお読みいただきありがとうございました。