大阪城に次ぐ規模であった【名護屋城】の謎を解いて観よう! | あもん ザ・ワールド

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佐賀県唐津市を歩く3

放浪日2019年8月17日

 

佐賀県唐津市のマニアックを探し

【法海寺】の“鶴の岩屋”を得した気分で観て来ました

佐賀県へは家族そろってお越しくださいw

さて、お次のマニアックは唐津市の始まりとなった地へ行きたいと思います

時は豊臣秀吉が天下を納めていた時代

場所は標高約90mの波戸岬の丘陵です

ここに当時では大阪城に次ぐ規模の【名護屋城】が築かれたのです

ちなみに、“金助・吾助の墓”がある所でも有名です

【名護屋城】の面積は約17ヘクタールです

半島全体が名護屋城の敷地だったそうです

リアルに“金助・吾助の墓”があるとは思わなかった!

【名護屋城】は現存していませんが【名護屋城博物館】でその存在を学ぶことができます

当時の秀吉の威厳を感じられる建物です

【名護屋城】は秀吉の野望であった“朝鮮出兵”の際に出兵拠点として築かれた城です

“トイレのナゾを追え!!”と言う特別展が開催中でしたw

あもんは、【名護屋城】より、“トイレのナゾ”より、この建物のカッコ良さに魅せられているんですけどw

素敵なセンスに見上げてボーとしてしまいます

【名護屋城】建築時もこうしてボーと見上げる人が多かったのかもしれません

【名護屋城】は築城の名手と言われた“加藤清正”“黒田長政”“寺沢広高”らが役割を分担し

突貫工事で約5か月と言う驚異的な機関に築城されました

天守は地下1階地上6階で高さ約30mだったそうです

平山城ながらも、周囲約3キロ内に120か所の陣屋が置かれており

全国から諸大名が集り、20万人を超える人々が行き交ったそうです

総勢約16万の兵は9軍に編成され、壱岐対馬を経て朝鮮半島へ渡っていきました

秀吉も【名護屋城】に到着し本陣を構えます

この時約10万の兵が【名護屋城】に駐屯し、水不足問題が起きたぐらいでした

てか、この建物、カッコいいね!

と、展示物より建物に夢中な旅人がいますw

設計者は秀吉になったつもりで設計したのでしょうか?

朝鮮出兵で戦線がこう着状態になると、秀吉は講和交渉を始めますが

交渉は破談し、秀吉は更に14万人を朝鮮半島に上陸させます

この時の秀吉の言動は不確かな事が多く、その真相は謎に包まれています

秀吉が没すると、朝鮮出兵の全軍撤収が始まります

それによって【名護屋城】もその役割を終える事となりました

朝鮮大陸進攻が中止されたため、【名護屋城】は廃城になったと考えられています

そして、建物は【唐津城】に移築されたと伝わっています

そう、あの【唐津城】の始まりが【名護屋城】の廃城からなのです

石垣は江戸時代の島原の乱後に一揆などで立てこもりを防ぐためにほとんどが壊されたそうです

【名護屋城博物館】は現在、朝鮮と日本の交友の歴史を語っていますが

とある訪問者に『韓国主観をもとに、見学に来た子供たちに間違った日本の近代史の歴史を学ばせている』と指摘を受けています

朝鮮の皇后が日本軍人らに殺害される、朝鮮人に日本人の名前に改名させる、徴用工による強制動員、従軍慰安婦の事実などを分かっている範囲で展示しています

それらが韓国側の主観に立っているとのご指摘です

それが、飛躍し、『この博物館は朝鮮人の博物館か?』と言う意見にも発展してしまいました

あもんは、何の先入観も無く、観覧しましたが、そんな考えは全く思わなかったのが事実です

是非とも、多くの方々に展示を観てもらい、それぞれで考えて頂きたい歴史です

名護屋城オリジナル家紋ポロシャツ!!

名護屋城に関わった大名の家紋が勢ぞろいですか!

家紋フェチにはたまらないポロシャツですね!

あもん的には石田三成の家紋にクスっとしましたw

そろそろ、トイレのナゾを追いますか!!

あもんは学が少ないので謎が解けませんでした!!w

秀吉は【名護屋城】で出兵した諸将に指示を出す一方で

城に造った茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したり

これまた、謎の多い政治を行っています

現代では何故かトーテンポールになっていましたw

トイレの謎より、この謎の方が気になってしまいましたよ!

 

ということで、続きます