2015年8月 記
広島には記憶に耳をかたむけないといけないモノがある
七十年前の広島の記憶
それは風化させてはいけないものである
七十年前に起きた広島の大惨事は
全世界にとって重要な記憶を生んだ
人類が生んだこの記憶は後世に深く刻まれ
人類が尊ぶモノと人類が償うモノを知ることと成った
記憶の証言者は被爆者であり
思い出したくないあの地獄絵図を
勇気を出して証言してくれた
勇気が出せなかった方もいる
勇気を出さなかった方もいる
その方々に安らかで穏やかな人生を送ってもらうのも
人類が尊ぶモノのひとつである
そして、記憶の証言は人だけではない
広島には記憶に耳をかたむけないといけない建物がある
広島に多く現存している被爆建物がそれだ
建物は声を出すことができない
気温変動や風雨で音を出すことはよくあるが
声を出すことはできない
しかし、声を聞くことはできる
多くの人間がこの建物で憂い嘆き、時には八つ当たりをしただろう
しかし、建物は何も言わず、ずっと聞き続けてくれる
人間が自分自身で納得した答えを見つけるまで
建物は決して声を反発させず、そっと吸収してくれる
人が建物に記憶を訊ねるためには
耳をかたむけないといけない
だだ、傍観するだけでは無く
耳をかたむけ、想像をして
記憶を感じなければいけない
もしかするとそれは違う記憶かもしれない
しかし教わる記憶と感じる記憶では
感じる記憶のほうが心に染みるのは間違いない
記憶を想像することで新たな記憶を生み出す
それを成し得る力が被爆建物にはまだ残っているのだ
あもんは被爆建物の前で耳をかたむけてみた
広島市中区にある袋町小学校は爆心地から460mの位置にあり
原爆の被害を大きく受けた被爆建物である
被爆当時、この学校の多くの児童は学童疎開により被爆を免れたが
残っていた職員と児童のほとんどが一瞬にして命を失った
しかし、唯一鉄筋コンクリート造だった西校舎の外郭のみが原爆に耐えたのだった
袋町小学校の開校は古く明治6年で明治9年にこの地に移転された
広島市中心部にあったこの学校は市の発展とともに児童が急増し
昭和初期には1600人という児童数であった
原爆に耐えた西校舎が完成したのが昭和12年
鉄筋コンクリート造地下1階地上3階で
水洗便所やダストシュートなどの設備があった最新の教育現場であった
学童疎開は原爆投下5ヶ月前の1945年3月からが始まり
児童たちは広島県北部の寺院などに疎開をしていった
学童疎開により、多くの尊き命は救われていたのだが
学童疎開へ行ったのは3年生から6年生までである
2年生以下は夏休みを返上し、学童動員という名の下に
建物疎開のために木造家屋の解体作業を手伝っていたのだ
そのため2年生以下の尊き命が失われた
しかし奇跡的に西校舎の地下にいた児童3人の命が助かっていた
一人は登校して下駄箱のあった地下室に入った時が8時15分であり
一人は下駄箱で運動靴に履き替えていた時が8時15分であり
一人は裸足でグランドにいたので地下室に靴を履きに行き
グランドに戻るために階段を上がっていた時が8時15分であった
この時、グランドから地下室へ靴を履きにいったのは6人であった
5人は先に靴を履き替えてグランドに出た後が8時15分であった
いったい、何が起きたのか、全く分らなかったであろう
戦争というものでアメリカと戦っていたのは分っていた
空襲のときは逃げないといけないというのも分っていた
でも、先生の言うとおりに木造校舎を壊していただけなのに
『どうして、一瞬にして木造校舎が無くなったの?』
『どうして、周りが火事になっているの?』
『先に出て行った友達はどこにいったの?』
『この人、なんで動かないの?』
『わたしのおうち、どこだろう…』
『お父さん、みんなが怖いよう…』
『お母さん、目が痛いよう…のどが渇いたよう…もう歩けないよう…』
泣くこともできなかった
誰に向かって、泣けばいいのかも分らなかった
逃げることしかできなかった
この見たことも無い地獄から逃げることしかできなかった
『先生!わたし、どうすればいいのですか?』
という質問ができる先生はひとりもいなかった
原爆に耐えた西校舎は被災翌日から被災者の救護所として
救助活動の重要な拠点となった
その後、家族や知人の消息を見つける為にこの建物に人が訪れている
そこで利用されたのが壁に書かれた伝言であった
連絡手段が全くなかった当時に
原爆によって離れ離れになった人々の
最後の望みが壁に書かれた伝言であった
ムシロをひたすらめくっている女性がいた
女性の顔はムシロをめくる度に悲哀の顔と安堵の顔を現していた
『あんた。どこにおるん?』
『あんた。火傷しとるんじゃないん?』
『うちは、焼けてしもうた。でも、アツシは大丈夫じゃったんじゃ!』
『おばぁのうちにおるけん、はよぉ戻ってき』
『建物が無くなったけん、道がわからんようになったんか?』
『あんたの好きなスイカ冷やしとるけん、早よぅ、帰ってきんちゃい』
『地図、書いとくけん、見るんよ』
誰に聞いても分らんって言われた
あんたがあの時、どの道を通ってどこにいたのかを誰も分らんって…
いつも行き先言ってくれとったのに
なんで、あの時だけは何も言わんとでかけたんね…
それから10日後、女性は焼却場にいた
『すみません、どれでもよいですから、骨をひとつ頂けませんか…』
以上はあもんが記憶に耳をかたむけて聞こえた記憶である
実際の記憶とは違う記憶である
記憶は風化せてはいけない
それはもちろんのことではあるが
人の記憶の風化は必ず起こるものである
それを責めても悔やんでもいけない
人の記憶は人の生涯分しか続かないものである
ならば、進化させればいい
風化とは時が経つにつれで自然とその記憶が徐々に失われるということ
風化という言葉の反対語はない
あもんはここに、風化に対し進化という反対語をつける
進化とは進んで変化するということだ
貴重な被爆者の証言を聞いた戦争知らない我々が
そのメッセージを進化させ伝え継がなければならない
その答えはいたって単純で、ただひとつである
世界恒久平和
被爆後七十年経っても、多くの苦しい証言を頂いても
このただひとつの答えを成し遂げられないということは
証言が進化されていないからだ
証言の進化とは表現方法と関係をする
証言を聞いた人々がさらに多くの人々へ伝えられる表現の進化が
七十年経った今でも成し遂げられていない気がするg>
感じたことを進化させて伝えよう
それが未だ人類が達成できていない答えに繋がるかもしれないから
袋町小学校は被爆から10ヶ月後に
児童数37人で授業を再開させている
1952年北校舎・講堂が1957年南校舎・プールが完成した
そして2000年、老朽化により被爆に耐えた校舎の解体開始された
この時、壁の漆喰や黒板の下から
救護所として使われた際に書かれた避難した人の消息を伝える数多くの被爆伝言が発見された
2002年より旧校舎の一部を残し、平和資料館として静かに語っている





























