2016年6月19日記
非理法権天
「非は理に劣位し、理は法に劣位し、法は権に劣位し、権は天に劣位する」
広島県江田島市江田島町に幸の浦という所がある
この地には、マルレ艇による陸軍海上挺進戦隊の訓練基地があったところだ
この訓練基地は日本軍の秘密部隊であり、国内外の軍関係者以外では知る人はいなかった
昭和42年、元教育隊長が顕彰の碑を記したことから語り始められた地である
陸軍海上挺進戦隊の設置目的と任務は
水上特別攻撃艇(四式肉薄攻撃艇)〔略称:マルレ〕に乗って
爆雷とともに敵艦に突撃する正に海の特攻隊であった
その仕様はベニヤ板で造った舟に自動車のエンジンを装置して
時速約45km/hで走り、250kgの爆雷を積載していたという
1944年4月ごろ、日本の航空戦力は劣勢の状態であった
そんな時に陸軍の船舶部で上陸してくる船団を攻撃しようという案が出てきた
海上での戦闘は海軍の受け持ちで、陸軍における海戦との関わりは輸送が主任務であったので、戦闘に陸軍がかかわるというのは大きな変化であった
大本営陸軍部と陸軍船舶司令部からそれぞれに出された案は
小型の舟艇を米軍が上陸してくるであろう場所に隠して
上陸時に船団の側背面から体当たり攻撃を行おうとするものであった
当時海軍が同じような特攻艇『震洋』を開発していたが陸軍が大量生産を始めたマルレは
震洋と比べて、速力も機能性も劣っていたという
その理由として、マルレは特攻艇としては開発されてはいないという認識があったからだ
震洋は艇内に爆薬を搭載しているのに対し
マルレは艇尾に爆雷を懸架する形式になっており、相手の船団に奇襲をかけ
敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発されたものであった
海軍の震洋が舳先に爆薬を搭載して特攻するのに対して,マルレは爆雷を投下する方式であったという
目標船に接近すると、艇の先端に突出している扇形の”激突板”を相手の船腹にあてるか
操縦者がハンドルまたはペダル操作で爆雷を投下する仕組みだ
爆雷は投下後約7秒で爆発するようにセットされており
操縦者はその間に巻き添えにならないように離脱する必要があった
船舶兵生え抜きの将校は当時、もうほとんどいなかったようで
その要員は、他の兵科から転科して船舶部隊にいる者、戦車や自動車など車輛関係の隊の者が選ばれた
戦隊長の要員も、志望の有無を問われることなく指名された
ある戦隊長は、基地で艇内に入って整傭中に突然、呼び出しがあり
そこの隊長から、『任務の中身は聞くな』と指示されたという
当時の開発者はこう語っている
『海軍は船に直角に進入する。陸軍は斜に進入する。爆雷を落としてから5m沈むまでには艇はかなり前進します。そのうえ、夜間舷側すれすれに入られると、大きい船からは射撃しようがない、死角に入ってしまいますから』
体当たりか、そうでないかの問題はかなり議論がされたようだ
終戦間際の日本国で人命だけは助けてあげたいという
言ってはいけない思いがここにはあったのだろうか
しかし、そのときマルレ研究班の班長は、こう語っている
『だから目標舷側に対して30度から20度の角度で入っていって、目標至近距離でハンドルを切ると、滑って船尾が目標に接触する、そのときに爆雷を落とす。これは私が自分でやってみて一番い方法だと思ったわけです。結局はぶつかることなんです』
これらの検討結果を受けて決定された大本営の使用方針は
『攻撃は即ち体当たり肉弾の要領を以って敵船に驀進し接触時に爆雷投下により敵船撃沈を図る』とされた
マルレは米軍の資料では1945年1月9日に、フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍に対して第12戦隊のマルレ艇70隻を投入し、7~10隻に被害を与えたことになっている
米軍の不意を突いた理想に近い条件での戦果のようであったが
舟艇は全滅し、戦死45人、生還2人となっており死亡率は96%
中には捕虜となるのを嫌い、自決をしたり、抵抗して射殺されたという記録もある
この損失は、米海軍にとって重大なもので、フィリピン南部に展開していた魚雷艇隊を急いで北西方面に移動させ、輸送船団泊地の防衛力増強を図った
米海軍は哨戒艇と航空機とで徹底した哨戒を開始し
レ特攻艇の秘密基地を破壊するため、特別部隊等を編成して捜索に当たった
米軍はマルレのことを自殺ボードと呼んだそうだ
海上輸送線の途絶に伴い潜水艦、航空機による移動中の被害が多く
出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるなどして実戦に参加できぬまま
支援要員も含めて 2500人以上が戦死したとも言われている
マルレ搭乗員はこう語っている
『今まで直線的に船体に衝突するものと思っていたが、敵船舷側五メートル以内に接近し、爆雷を両側から投下避退する方法だと説明を受ける。これは衝突即爆発よりも、爆雷を水面下に投下し、海面下十メートルの深度で爆発させその圧力を利用することがもっとも効果的方法だということなのでそうである。敵船舷側五メートル以内だから、体当たりしようがしまいが、敵が黙ってみているわけではなく、どっちにせよ同じようなものだが…』
『がらんとした浴槽に浸かりながら明日からのことを考えたが、はっきりしていることといえば、ベニヤ製の小さな船艇に爆雷を積んで敵の艦船に体当たりすることだけであった』
『係の下士官は、親切に変更の理由(Uターン式攻撃)を説明してくれたが、なぐさめの言葉として受け取ってしまった』
米軍側はこう語ったそうだ
『大部分の連絡艇(マルレ)は爆雷が確実に目標の直下で爆発するように直線的にぶつかってきた』
そして、嬉しいことになんとか生きて帰ろうと考える者もいたそうだ
『私は常々体当たりなんて事は一度も思ったことはない、何も無理に死ぬことはなく、敵艦を撃沈して生還できれば之にこした事はないとその方法を色々と考えていた。…私は海上に出たならば編隊を離れ、単独で一番近い敵艦に後方から進入し、平行に走って中央付近で爆雷を投下しそのまま直進して離脱する、離脱したならば艇を捨て海に飛び込み岸まで泳ぐ、もし途中で敵弾に当たればそれまでだが、この戦法なら成功率も高いと確信していた』
陸軍海上挺進戦隊の一個戦隊は、戦隊長以下104名、マルレ百隻をもって編成した
戦隊本部(戦隊長以下11名)と三コ中隊(中隊長以下31名)からなる
中隊は中隊本部(中隊長以下4名)および三コ群(各9名)からなる
戦隊を戦術単位、中隊を戦闘単位とし一コ群(九隻)を行動の最小単位と定めた
部隊装備として自動小銃四挺、各戦隊員はそれぞれ拳銃と軍刀を装備した
昭和19年9月からこの地で第1~第10戦隊が編成を完了し
ついで10月から第11~第30戦隊の編成を完了
決戦地、フィリピン・沖縄・台湾に展開を完了した
隊員のほとんどが船舶特別幹部候補生一期生の年少兵であった
特幹隊の教育課程の終了式が行なわれると
隊内では各区隊別に祝宴が設けられ、酒や食べ物が用意された
隊員は未成年者が多く、酒は初めてという者も一時でも重苦しさを忘れようと
無理にも飲み、声がつづく限り歌を唱い、騒ぎまわった
夜が明けると、隊員に墓参りのための帰郷休暇が与えられた
一週間程度の帰郷休暇だ
出発にあたって、隊について口外せぬことと
指定の集合日時に絶対遅れぬことを厳重に言い渡された
家郷において、隊員達は、特別な隊に入れられ、これが最後になる
とは言えず、心のうちで家族との別れを告げた
当時の少年兵は『一応、僕ら、助かる可能性があるってことになっている。でも、うまく敵艦に接触して爆発からどうにか逃げられたとしても、敵はだまって見ているわけではない。よけいな燃料も積んでいない。成功しても助かったって話は聞いていません…』と話している
この作戦で2,288人が参加し、1,636人が戦死をしている
その後、本土決戦準備のため、第31戦隊~第40戦隊まで
及び第51、第52戦隊が編成を完了して九州・四国・紀州の各地に展開した
また、第41~第50戦隊および第53戦隊は仮編成のうえ訓練中に敗戦を迎えたそうだ
広島に原爆が落とされた8月6日
約1800人の少年兵がこの幸ノ浦いた
少年兵たちは「船舶練習部」の第十教育隊が水上特攻の訓練を受けていたのだ
彼らには原爆投下後わずか35分後、司令部から市民救助の指令が下った
『広島市内の消火・救援にあたるとともに、患者を最も安全な似島検疫所に輸送せよ。京橋川両岸の消火、主力は京橋川をさかのぼり救難にあたれ。
宇品の中央桟橋に救難隊を出し、(似島へ)出発準備せよ。幸の浦の部隊は待機せよ』
幸の浦の先にある似島は爆心地から離れておりほとんど原爆被害を受けず
陸軍の広大な敷地と医療関係の施設があることから
司令部によってまず最初の避難先に指定されたようだ
南東の風となったために、「黒い雨」も降らなかったそうだ
部隊は訓練を一時中止し、大発あるいは小発という上陸用舟艇に分乗して正午過ぎに宇品に上陸をする
部隊を二つに分けて、一隊は舟艇で河川を遡上して被災市民を舟に乗せ、他の一隊は陸上で被災者を運搬する作業を続けた
司令部には負傷者が続々と逃げ延びて来たが、収容しきれず
陸軍似島第二検疫所や金輪島へ船でピストン輸送をした
8月6日午前9時過ぎ
『似島救護所を開設し、最大限(500名)の受け入れ準備をせよ』
直後に『さらに700名の収容を準備せよ』
14時には司令部に収容した負傷者は千三百人に達した
夕方になっても司令部に逃げて来る負傷者は後を絶たず救護活動は徹夜で続く
さらに、この部隊は広島電鉄本社を指揮所と定め
8月12日まで隊員交代で任務に就けながら、徹夜の救助や消火の活動を行っている
部隊長は『処理した遺体は1万人以上に及び、また収容した負傷者は数万人を下らない』と述懐している
こうして、似島の検疫所は歴史上どこにも例をみない壮絶な野戦病院となったのであった
当時の陸軍海上挺進戦隊隊員はこう語っている
8月6日、その日も朝から太陽はジリジリ照り続けていました。
いつも通りの作業のため、庭に整列していますと、カメラのフラッシュをたいた時のような光を浴びて、ほおに「ピリッ」とするものを感じ、直後すさまじい爆発音を聞いて、防空壕に飛び込みました。
なかなか消えないキノコ雲を見ながら、夕方四時過ぎまで作業をしていると、
私たち10名に似島の検疫所行きが命令されました。
桟橋には、たたみ表につつまれた死体や、そのままのものが無造作に置かれてありました。
間もなくこれらの死体を馬の焼却炉に運ぶよう命令されました。
大八車に6~7個積んでいきましたが、何度も落ちました。
手足を持つと、よく焼けているので、皮や肉がズルズルとむけて、
支給された軍手も一回運ぶとベトベトになって、跡には素手で持つようになりました。
死んで間もない死体は柔らかく、運ぶのに苦労しました。
ある程度時間がたつと堅くなって扱うのが楽でした。
馬の焼却場は人間だと30人くらい焼けるそうですが、一回の時間がかなりかかるということで、
とうとう大きな馬小屋も死体で一杯になりました。
8月7日は早朝より死体運び。
昼近くなるとくさりかけて、ひどい臭い。ガスがたまって大きな腹になりました。
そこでこのおびただしい数の死体を、今の似島中学校のグラウンドに穴を掘って焼くことになりました。
すでに穴は掘られていました。この中に死体を投げ込んで、何層にも積み重ね、火をつけるのです。
8月8日、後から後から運び込まれる死体を焼くこともできなくなり、
山のあちこちに掘られた横穴式防空壕に入れることになりました。
今の似島中学校グランド南端の小山の中腹のたくさんの防空壕が私たちの仕事場でした。
死体を2人1組で担架に乗せ、山道を50mぐらい登って、奥が20mくらいの横穴の奥から積み重ねるのです。
その中は屍臭が一杯で死体の腹に一杯になったガスが肛門から出ようものなら、
もっとすごい臭いでした。
中に入るときは、1,2、3と合図して息を止め、小走りで奥に行き、死体を重ねるように投げ捨ててくるのですが、
出るまでに息を止めきれず、入口の近くでとうとう息をします。
外に出て4~5回深呼吸をして屍臭から逃れようとしますが、
鼻の先にくっついてなかなか離れませんでした。
そんなときは、下り道にあった便所の臭いをすって、悪臭から逃れようとしました。
便所の臭いの方が屍臭に比べると格段によかったのです。
穴の中の死体がうまく重ならないと、くさいのを通り越して、頭が痛くなり、
みんなの手前の方にポトンとおいていくようになりました。
たちまち入口近くまで死体になり、穴の奥に行けなくなったのをみた将校が、
怒って死体の上を歩いて奥の方につめるように命令しました。
私も死体の上を歩いて中に入りましたが、バランスが取りにくく転びそうになりました。
とうとう入口まで一杯になり、今度は物干し竿を持ってきて、
死体をついて奥の方に押し込むのですが、時々ガスが飛び出したときにはみんな散ってしまいました。
今思うと、なんとひどいことをしたものだと思います。
死者をまるで汚物のように扱い、本当にすまないことをしたと思います。
でもこんなにしないと、あのおびただしい数の死体を処理できなかったし、
命令を聞かなかったら、私自身もひどい目にあっていただろうと思います。
戦争はもう二度としてはいけません。
当時の陸軍病院船隊員はこう語っている
私は陸軍病院船部隊の兵隊でした。
太平洋戦争が始まると、マレーシア、ビルマ(ミャンマー)あたりでの仕事が多くなりました。
この方面の戦争で傷ついたり、病気になった兵隊を日本に運んだのです。
最初は勝ち戦を続けた日本軍もやがて各地の戦いで敗北しはじめました。
そうなると、病院船も戦地に近づけなくなりました。
私たちは、五年も続けたこの仕事を辞め似島に上陸することになりました。
8月6日、強烈な閃光がはしり、しばらくして、ドンという腹にこたえるような音が聞こえました。
続いて、ガチャンという窓ガラスの割れる音があちこちでおこりました。
私たちは、外に飛び出し、裏山に登りました。
すると、広島市内は真っ黒いカーテンを張ったようで何も見えないのです。
不思議に、空の一角に妙な格好をした入道雲がもくもくのぼっていくのを見ました。
10時過ぎ、下士官が「担架を持って桟橋に急行せよ」と大声を張り上げて命令しました。
船の中の人々を見て、アッと驚きました。
顔も頭も身体中、大火傷を負って血だらけの人ばかりです。
男も音暗も年寄りも若者も子どもも服は破れ、焦げ、泥と血まみれの半裸の姿でした。
うめき声が船を覆っていました。
その数、およそ300人ほどだったでしょうか病室では火傷の手当て、手術と忙しく立ち回っていました。
『おーい、また船がついたぞ-』
第二船、第三船、第四船、つぎつぎと運び込まれた被爆者の数は一万人にもなったのです。
第一に治療、そして患者名簿作成、食事の世話とてんてこまいの忙しさでした。
長い、夏の太陽も、ようやく西にかたむきかけた頃、ようやく患者の給食の世話が一段落しました。
私たちは、交代で不寝番にたち懐中電灯を持って、患者の様子を見て回りました。
この時、不思議なことを発見しました。
ここに着いたときには火傷と怪我だけであったのに歯茎から血がにじみ出ている者、
顔や手足、身体のいたるところに斑点を出している者をみつけたのです。
『兵隊さん、水を一杯ください。のどがやけつくようでがまんできません』というのです。
水は良くないと思いながら、お茶を入れて飲ましてやりました。
『ああー、おいしかった。兵隊さんありがとう』
『よかったのう、明日の朝までぐっすり寝なさいよ』
といって、その場を立ち去りましたが、朝を待つことなく息を引き取って人も沢山いました。
死んだ人は、一番奥の建物に運び、家族が訪ねてくるのを待ちましたが、
誰も引き取りに来ないまま火葬される人も数知れずいたのです。
8月15日に、患者にも終戦を伝えました。
悲しい顔も安心した顔もなく、つぶれた目から涙だけが流れていました。
何のために、この多くの人たちが傷つけられたのか。
この時のくやしさは、とても言葉では表せません。
当時の陸軍海上挺進戦隊隊員はこう語っている
私は広島市と向かい合った江田島の幸の浦で、8月6日を迎えました。
ピカーッ、目がくらんだ後、ドーン、腸がえぐられるような音がして、みんななぎ倒されました。
しばらくすると、広島の上空にドーナッツ状のキノコ雲が上がりました。
やがて全隊が船に乗り、広島市に救援に向かいました。
しかし、上陸できないので、正午過ぎに似島へ。
似島は今にも死にそうな人たちでいっぱいでした。
本心、近づくのが怖かった。
気を取り直し、一人の黒く焼けただれた人の腕をとり、力をかけた、皮膚だけが私の手に残った。
男か女かわからないその人は、ムーウッとうなり倒れてしまわれた。
やがて6日の夜、建物いっぱいに詰め込まれた被爆者の熱で、部屋はどこも異常に温度が上がり
『水をっ!』『水をください』と、それは言葉にならないうめき声を残して、多くの方々が亡くなられました。
はじめのうちは赤チンやヨウチンを傷口に塗るだけの治療のまねごとをしていましたが、その手を払いのけるようにして、
『水をください』とまといつかれました。
あげてはいけないと命令が出ていたので、誰もあげませんでした。
焼け焦げた我が身をかきむしり、空をつかんで、次々と亡くなられました。
そのあまりの多さに、私たちは死体運び出しの役を命令されました。
暗いローソクの中の作業。
足下に『水をくれ』とまとわりつく被爆者の姿。
もう、あれは地獄でした。
とうとう私は命令をやぶって、一人の被爆者に水をあげてしましました。
ひしゃくにすがりぐくようにして、一口水を飲み
『兵隊さん、ありがとう』
とかすれた声で言い、ひしゃくをしっかり握りしめたまま、前につんのめった。
それまででした。
びっくりしました。
私は命令に背いたことを反省し、あたりをそっとうかがうと、仲間も同じ事をして回っていました。
どうせ助からない命なら、ほしい水を飲ませてあげようと思ったのは、私一人ではありませんでした。
8月7日の朝までに、10人中9人までが亡くなられたように思います。
たまらなく、やるせなくなってまだ明けない闇の夜の広島の空を仰ぐと、空を赤々とこがして広島市が燃えていました。
8月7日、明るくなった庭をみると、遺体の山があってとても驚きました。
そこには小さな泉もあったので、部屋から這い出した人たちが折り重なって死んでおられました。
あらためて、水がほしかったのだろうと、不憫に思いました。
あの日は、朝から死体運びでした。
死体の中には腐り始めたものもあり、とくに焼けただれた死体は強烈な臭いで、
もうウジ虫がいっぱい這い回っていました。
タオルで顔を覆い、担架に乗せて、馬匹検疫所近くの待避壕に放り投げました。
まるで汚いものを捨てるような気持ちでした。
今考えると、恥ずかしい話です。
今の似島中学校のあたりから、人を焼く煙が、何日も何日も立ち昇り、
焼ける臭いは島を包んでいるようでした。
近くの焼却炉の煙突からも、同じような煙が見えました。
8月9日ごろになって、やや落ち着いた感じになりました。
そこへ一人の少女が訪ねて来られ、たった一人の姉を探して、方々の収容所へ行ったが見つからず、ここ似島が最後の探し場になる。
ぜひお手伝いしてほしいと言われたので、私と戦友が案内役に立ちました。
4日間、死体運びばかりしていたようなものだったので、案内役が迷う始末。
あちこち一緒に探し回ったが、少女のお姉さんは見つかりませんでした。
あきらめて詰め所に戻って班長に言うと
『そうかあー』といった後、すぐに
『桟橋に行ってみろ、新しい死体が船に積んであるぞ』と言われました。
私たちはすぐに桟橋に行き、船に乗せてもらいました。
戸板に乗せられた死体がいくつか並べてありあました。
少女は一人をみつめ、おおよそ男女の区別もつかないような腫れ上がった唇をあけ、
歯形をみて、よよと泣き崩れ、遺体に取りすがりました。
そのときになって、私にやっと人間らしさが戻り、心にあついものを感じました。
そして、そこに居た見習士官が群島で頭の髪を切り、少女に渡して下船を命令しました。
泣きじゃくる少女をよそに、船はゆっくり出て行きました。
8月15日、江田島幸の浦で、腹痛と下痢を我慢して、天皇の声を聞きました。
戦友達も、腹痛と下痢を我慢して、敗戦の知らせを聞きました。
昇天の霊よ 永久に安らかなれ
この碑は陸軍海上挺進戦隊の皆様が被爆者のご冥福を祈って自費で建てたものだ
遠い記憶とともに今も生きているご老人と共に
この小さな島似ノ島での祈りは今でも続いている
一瞬の爆発により命まで奪われなかった人々が
安楽を求め向かった先でもあったが似ノ島、金輪島、江田島、能美島であった
死の淵からかろうじて這い上がることができた人々は
地獄絵図を背中に海へ海へと向かっていった
きっとふるさとが瀬戸内海の島だったという人も多かったのだろう
さっき起こった一瞬の出来事を理解することなく
全裸、半裸で海へ海へと向かっていった
足元には無数の死体、足元から聞こえるか細い助けを求める声
ここで他人を助ける余裕などなかったはずだ
自らが命を繋げるために精一杯無心に歩き続けているだけだから
被爆当日似島臨時野戦病院にて
約1万に及ぶ被爆者の診療看護を中心に行った
陸軍海上挺進戦隊
繰り返し言う、彼らは非理法権天を掲げた
少年兵であった
非理法権天という言葉が彼らの頭に押し込まれていた
「無理は道理に劣位し、道理は法式に劣位し、法式は権威に劣位し、権威は天道に劣位する」
非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す
純粋無垢な少年兵はこの言葉をどのように胸に閉じ込めたのだろうか




















