読書について、というと、ショーペンハウエルの、「読書は、他人にものを考えてもらうことである」という警句を思い出す。

 

 しかし一方で、他人の考えを知ることが、社会の中で生きていくことに必要である。本の中には、様々な人間の考え方の類型が描かれている。基本的に、他人の脳の中を知ることはできないし、日本人は特に言葉で考えをあらわにしない。そこで、本から多数の考え方を学んで、それを社会の様々な人の思考に当てはめ、適切な対応をとっていくことが世渡りに必要、というわけである。

 例えば、野球でエラーをしたとする。チームメートは、何やってんだという人もいるし、うまいなと皮肉を言う人もいる。こういった皮肉は、子供には難しく、後で思い出して傷ついたりする。他人が自分と同じ考えをしていると思い込むと、大抵裏切られる。違う個体なのであるから、信じる方がおかしい。

 

 小学生(公立)の頃は、生徒は全く選別されれいないので、人間の差異が大きく、考え方の幅も大きい。一方、高校、大学では、比較的類似した人間構成となるため、考え方の違いは少なくなる。ところが、社会に出ると、会社内はともかく、世代や社会レベルの異なる人々と関係することになり、自分の理解を超えた考えに出会うことになるのである。そのことに戸惑わないよう、本を読んで予習しておく。

 こういったコミュニケーション能力には、天性のものがあるような気がする。ただ、こんな能力に最上級の価値をおく必要はないだろう。そのうち、AIで他人の思考パターンを予測することができるようになり、コミュニケーション法を指示してくれるに違いない。

 

 読書に戻ると、小中学生の頃は、余り本を読まなかった。思い出すのは、病気の時に暇だったので読んだ、世界少年少女文学全集の類いで、スイスのロビンソンやグリム童話などである。少年向けのSF小説も読んだ。日本文学では、芥川龍之介の鼻、杜子春、蜘蛛の糸、などは中学生には人気だった。蜘蛛の糸は、結構、私の行動に影響を与えていて、小動物を殺す時には、ちょっとためらったりしたものである。

 理系の本に関しては中学から読んでいたが、時間の進み方が状態によって異なるという不思議は、ブルーバックスの相対性理論関連本で読んだ。

 

 高校の頃は、ほとんど読書をしなかった。現国の教科書くらいだろう。参考書を読むので忙しかったのである。

 

 自由な時間ができた大学生の頃は、太宰治、日本の古典、聊斎志異、吉川英治の宮本武蔵、フロイト、ニーチェのツァラツストラ、ドストエフスキー、など、相当数の書物を読んだが、とりわけドストエフスキーの長編からは、人間心理の不合理性を学んだ。大学生というのは、ある程度難解な小説や評論に挑戦したくなる年代でもある。哲学書も多数買ったけれど、どうも読む気力がわかなかった。

 冒頭で述べたショーペンハウエルは、人気のヘーゲルを妬むという、厭世主義者でありながら自信家でもあったというところに、何となく親近感を感じる。いつかは、意志と表象としての世界を読んでみたい。

 哲学は、特に時間論や認識論など、現代科学の進展に伴い、より理論化されてきたのではないかと思う。人間の認識には、感覚を通して、という制限があったが、頭の中では思考は飛躍しうる。

 

 40歳以降は、ミステリーなどを読むようになり、余り難しい書物は読まなくなった。また、読書で人間の考え方を勉強する必要もなくなった。他人の考えに合わせてコミュニケーションを取る必要もなくなったためである。

 ミステリー以外では、山本夏彦、向田邦子、養老孟司、小室直樹など、人を決めて読むようになった。

 

 最後に、奇跡の一冊をあげるとするなら、湯本香樹実「夏の庭」である。論評はしない。

 

 自分のことを長々と書き連ねたが、学びから暇つぶしまで、読書はしておいて損はないであろうと思う。