⭐日光江戸村に在籍していた、坂口祐三郎と本格デビュー前の木村拓哉さんのエピソードを紹介した所、大きな反響を頂いたので、今回も、私と『坂口祐三郎』の懐かしいエピソードを『木村拓哉』さんに絞って伝えていきたいと思います。



坂口祐三郎の代表作品は、日本初の特撮時代劇カラーテレビ『仮面の忍者赤影』。


もはや、伝説の金字塔作品として日本中で知らない人が居ない程の知名度を誇っている。



その『赤影』を演じカラーテレビのスターとして飛び出したのが『坂口祐三郎』なのです。


✨もしも彼があと少し早くデビューしていれば、銀幕の映画スターとして後世に名を遺していたと言われる程のテレビスターだったのです。



何故なら『赤影』の放送は、今から55年前、昭和42年、東京オリンピックから3年後。




モノクロテレビが、中心の時代に、来るべき、カラーテレビの時代を睨み、大手家電メーカー『三洋電機』と、大手映画会社『東映』が、手を組んで制作した『赤影』で、まさに、『キラリと光る涼しい目』で、主演を獲得したのが『坂口祐三郎』その人だったのです。


私と彼は、後年、仕事で意気投合して、二人三脚で、エンターテイメントの世界を駆け巡る事になり、彼がこの世を去った2003年以降、彼の人生の語り部として、作家活動に従事しているのです。


私にとっても、坂口の『赤影』は、幼少期より、憧れの強い作品として心に残っているのです。


❑そんな彼が、デビュー前の『木村拓哉さん』に、惹き付けられるオーラを感じ、いつか凄い俳優になると語っていた事を思い出すのです。



坂口は『赤影』以降、余りにヒットした『赤影』のイメージにとらわれる事を嫌い、何度も要請される『赤影』を、拒み続けるのです。




そんな中、彼が『赤影』を、任せたいと私に伝えた俳優がいたのです。




今から37年前の1987年。



その俳優は『真田広之さん』。



今や日本国内を離れ、拠点を海外に置いてハリウッドで活躍する、言わずと知れた大スター。



実は、坂口と『真田広之さん』は1970年代後半に、テレビドラマで共演。




❏左/坂口祐三郎。右/真田広之。

その頃から、密かに、『赤影』を任せるなら、『真田広之君』しか、居ないと思っていたのです。

しかし、中々、簡単に物事が進まない世界でもあるのです。

いつしか、その希望も無くなり、最早『赤影』は、自分一代限りと思っていた、その頃。


後に坂口が私に語った話として、『日光江戸村』で、後進の育成に励んでいた時、一人の若者を見て、『これから時代が変わるんだろうな。』と確信したと言うのだ。



それは、若き『木村拓哉さん』のことだ。


坂口は、木村拓哉さんに、今までの俳優やアイドルとは『毛色』の違う新たな魅力を感じたというのだ。



坂口は自らの事を美男であるという意識はあまり無く、赤影で世間を魅了したのも『時の運』と思っているほど自分自身への客観性が無かった。



でも、私は間違いなく赤影の成功は坂口あってこそだと思っているし、彼は紛れもなく美男であると思う。



だからこそ、木村拓哉さんに自分とどこか重なる魅力を感じたのではないかと思っているのです。



そして、坂口は、『彼なら(木村拓哉さん)、きっと素晴らしい赤影が出来るかも。』と私に少し冗談混じりで言ってきたのです。




今や日本中の誰もが知っている『木村拓哉さん』。



日本を代表する大スター。




坂口には、そうなる未来は見えていたのかもしれない。



俳優にしか分からない勘とも言えようか。




もしかすると、日光江戸村で、木村拓哉さんの若き姿を見たとき、自分を越える『赤影』を、見たのかもしれない。










後年彼は『赤影』に囚われ、方向転換に苦悩したが、木村拓哉さんの、アイドルという敷居を越えて、俳優としても幅広い活躍をする姿に、どこか羨ましさも感じていたのかもしれない。





❑今や、日本ではテレビ主演を数多く高視聴率番組として話題をさらい、最新映画の公開待ちである。






加えてCM、そして海外ドラマに全編英語出演と言う快挙が待っている。



多くの人の声援を受けて、木村拓哉さんの物語が始まる。



坂口祐三郎のキラリと光る涼しい目も、見守っているように思える。