”天皇陛下を武漢ウィルスから守れ!”そして日本国に仇なす国から我ら自身を守れ! | 日本と芸能事が大好きな Ameyuje のブログ

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米合衆国領土グアム島と仏領ポリネシアのタヒチ島とボラボラ島しか訪れた他国無し。比較対象が少ないのに「僕に一番合うのは日本」と思う。反日国に侮辱されても毅然とした態度をとらない現在の母国には「いやんなっちゃうな~」と立腹するけど、やっぱり日本が大好き。

今上天皇徳仁さまのお誕生日を寿ぎ、われらが皇室と日本国の弥栄を祈る朝。

 

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という、「今日は富士山の日」という案内を観てAmeba Blog の限界を感じました(笑)

 

以下、こういうことを書くと、

「おめでたい日に馬鹿な奴!」とか、

「お前は戦争賛美者か?」などと、

馬鹿にされ、嫌われることを解っていて書きます。

 

私は「軍艦行進曲 Warship March」というマーチの曲も歌詞も好きなんです。

きっと、死線を乗り越えんとするときに 生存への希望や家族への思いの他に、このマーチの歌詞や曲を心の支えにして戦ったであろう、過去の普通の日本の兵隊さんたちの姿が目に浮かぶからです。

 

いつものように話が飛びますが、

 
おそらく鎌倉時代の「元寇」以後では、大東亜戦争の苦難と敗戦に匹敵する最大の国難であった戦いとして「日露戦争」がありました。

その戦争は明治37年(1904年)2月の開戦から翌明治38年(1905年)8月のポーツマス講和会議で日露講和条約(ポーツマス条約)が締結されるまで、我が日本国と当時ロマノフ朝ロシアとの間で戦われたものでした。
 
司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」でも書かれていますし、また、その他の伝聞でも知られているように伊藤博文などは亡国を念頭にうかべたほどに大日本帝国の敗戦は必至と考えられていて、外務大臣の小村寿太郎がまず苦心したのは戦費の調達だったほどに、国際的には貧しい貧しい、我が日本国でした。
 
戦後の記録によると、日清戦争(明治27~28年)の戦費 2億円余に対して、10年後の日露戦争の戦費が20億円余だったと伝えられます。
 
明治時代には、生糸、茶、水産物くらいしか外貨を稼ぐ輸出品が無かったのですからね。
生糸は当時の欧米では贅沢品だったので、富岡製糸場を中心に製造した良質で安価な生糸が全輸出額の40%を占めていたと言いますが、それでも日清戦争時の約10倍にもなる日露戦争費用の幾分ほどにしかなりません。
 
ですから、最近の日本国で 2013年1月1日~2037年12月31日までの間施行される、東日本大震災からの復興財源に充てるために通常所得税に加えた特別税として税率2.1%の『復興特別所得税』の徴収に今の私たち日本国民が耐えているように、
 
日露戦争時代にも明治37-38年には、第1次および第2次非常特別税による高率の増税が行われて、私たちの祖先はよく その苦しい生活に耐えました。
 
後世、『軍事費は守るに足るだけで良い』と軍事費の抑制を説いたことから  2・26事件(1936年)で陸軍青年将校に暗殺されることになる高橋是清でさえ、戦費調達のために日本銀行副総裁としてアメリカやイギリスに出張して日本国債の買い手を探し回り、1億500万ポンドの資金を獲得するほどに 必死になった戦いでした。
 
支那の大陸での陸戦においては、大日本帝国陸軍は砲弾のやりくりにも苦労するありさまで、旅順要塞攻撃最大の山場であった「203高地」の戦いから、後期の大激戦だった奉天の大会戦において大日本帝国陸軍は九死に一生を得るような次第でした。
 

それでも、米国大統領セオドア・ルーズベルトの援助を得てポーツマス講和条約まで持ち込めたのは、ひとえに大日本帝国海軍司令長官 東郷平八郎麾下 連合艦隊の二等水兵に至るまでの全乗組員が「祖国を守り、そして家族を守る」為に命を懸けて、ロシアのバルチック艦隊と日本海海戦を繰り広げ、勝利してくれたおかげでした。

砲弾飛び交う艦上の水兵さん達もきっと軍楽隊の演奏でこのマーチを聞いた時から、歌詞に歌われていることと同じ思いを心に抱いて戦っていたに違いないと私は勝手に信じているのが、「軍艦行進曲」なんです。だからこのマーチが好きなんですね。

 

今で例えれば 皇国(われら和をもって尊しとなす家族の国)の四方を守るべし という歌詞は、日本国の排他的経済水域への「支那の海警や支那漁民の勝手な侵入」を許すな と歌っているわけですし、

 

日の本に仇なす敵を攻めよかし  という歌詞は、日本国に危害を加えて来る外国が在るならばこちらも攻めて打ち払え! という、いたって世界常識にマッチした訴えを 我らが祖先たちは歌って、神代から続く世界史的にも稀有な祖国と家族の為に、たったひとつしかない自分の命を捧げていたわけです。

  1. 守るもむるも黑鐵くろがね
    浮󠄁かべる城ぞたのみなる
    浮󠄁かべるその城日の本の
    皇國みくに四方よもを守るべし
    眞鐵まがねのそのふね日の本に
    あだなすくにを攻めよかし
  2. 石炭󠄁いはきの煙󠄁は大洋わだつみ
    龍󠄂たつかとばかりなびくなり
    たまつ響󠄃きはいかづち
    こゑかとばかり響󠄃どよむなり
    萬里ばんり波濤はたうを乘り越えて
    皇國みくにの光輝かせ
宝石赤宝石緑宝石ブルー宝石紫
 
いつものように Wikipedia の解説を借用すれば、

1893年(明治26年)鳥山啓作詞の「軍艦」に曲を付けて軍歌とし、後の1897年(明治30年)頃に、准士官相当官の軍楽師(この当時、軍楽科の最高階級)だった瀬戸口藤吉が新たに作曲し、1900年(明治33年)に「軍艦行進曲」として誕生した。

初演は、同年4月、戦艦富士乗組の軍楽隊によって行われたが、民間も含め広く演奏されるようになったのは1910年(明治43年)に妹尾楽譜店から楽譜が出版された以降。
 
1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦時にも繰り返しラジオから流された。
海軍省の制定行進曲であり、海上自衛隊でも、海上幕僚監部通達により儀礼曲の一として「軍艦行進曲」の名称で制定されており、進水式や出港式典の場以外にも観閲行進曲として奏楽されていて、ミャンマーでは国軍の公式軍歌としても採用されている。
 
…ということで、Youtubeでは行進曲の中間に、
 
海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ長閑(のど)には死なじ
 
という… これも良く知られる「海行かば」の歌詞をコーラスするバリエーションの方も聴けるのですが、 私は「軍艦行進曲」は鳥山啓氏の歌詞、「海行かば」は万葉時代の作者 大伴家持の長歌からの歌詞、それぞれを単独で聴く方が好きなので、 今日は動画のエンベッドはしません。

宝石赤宝石緑宝石ブルー宝石紫

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