【第8話 火種(2)】 【第9話 誘惑(1)】 【第9話 誘惑(2)】 【第10話 息子(1)】
【第10話 息子(2)】 【第11話 不和(1)】 【第11話 不和(2)】 【第12話 迷宮】
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【 第13話 愛妾(1) 】
マリリン・モンロー Marilyn Monroe (1 June 1926 - 5 August 1962) の死と並んでハリウッドにおける2大ミステリーとして語りつがれている「オネイダ号事件」について、今回の13話(1)と次回の13話(2)を通して、その事件の周辺でうごめいていたチャップリンやその他の人々についてのエピソードなどをぼちぼちと記述してゆきたい。いよいよチャップリンの影シリーズも次回で終わりになる。別ネタを考えなければならないと思うだけで頭痛がするが、まぁ、なるようになるだろう。
「死」・・・ 文字どおりに綺羅星のごとくスターたちが群れていたハリウッドに対して「なんと似つかわしくない、暗い言葉だろう」と思う方がいるかもしれない。
しかし、ケネス・アンガー Kenneth Angerm (3 February 1927- ) の著作 Hollywood Babylon (1972) やHollywood Babylon II (1992) を読んでいると、かっての映画黄金期におけるハリウッドスターや映画関係者たちの中には、他殺や自殺などを原因として天寿をまっとうできずに世を去った人々が少なからずいることに驚かされる。
「オネイダ号事件」という呼び名は、西部劇映画のパイオニアであり、プロデューサー、ディレクターとしても知られるトーマス・H・インス Thomas Harper Ince が迎えた最期(不審死)にからめてそう呼ばれているわけだが、死亡したインスを被害者とした場合に、加害者は一体誰なのか? ・・・という点が未だに解明されておらず、21世紀を迎えた現在にいたるまで憶測ばかりが飛び交っている不思議な事件なのである。
この事件を語る前に、三人の重要人物(W・R・ハースト、M・デイヴィス、T・H・インス)について紹介しなければいけないのだが、まずはウィリーとマリオンの馴れ初めについて記して置きたいと思う。
ウィリアム・ランドルフ・ハースト William Randolph Hearst (1863-1951) は19世紀半ば、 1863年 4月29日にジョージ George とフィービー Phoebe ハースト夫妻の一人っ子としてカリフォルニア州サンフランシスコで生まれた。
チャーリーと同じ 4月生まれであるが、年齢はハーストの方が26歳ほど年上になる。
父のジョージは銀鉱山の採掘で財をなした資産家だった。ウィリアムは10歳のときに母親と一緒にヨーロッパ旅行を経験するのだが、この旅行で彼は後の人生に色々と影響を及ぼすインスピレーションを得たようである。
合衆国に帰国したのち、16歳でニューハンプシャー州コンコードの聖ポール大学進学予備校に入学、つづいてハーバード大学で教育を受けた。ウィリアムはジャーナリズム関連の科目においては優秀な成績を収め、ハーバード・ランプーン誌 Harvard Lampoon の支配人も務めたという。(在学期間1882~85年。学位は取得せず退学)
William Randolph Hearst(1863-1951) |
ウィリアムが24歳のとき(1887年)、彼は父親から新聞社「サンフランシスコ・エグザミナー San Francisco Examiner 」を引継いだが、これはウィリアムがまだハーバード在学中であった時期に、父親のジョージが或るギャンブル負債の肩代わりとして獲得していた会社であった。
ハーバードも退学し、ジャーナリズムに自分の進路を見出していた若いハーストは、父親に「ぜひ譲ってほしい」と嘆願したのだろう。
これ以降、父ジョージは資産と権力を息子に譲り渡していくのだが、ウィリアムは 7年後の1894年にはニューヨーク・ジャーナルを買収し(1894 New York Morning Journal、1896 New York Evening Journal)、東海岸にまで進出の手を広げた。このことによってハーストは、当時 ニューヨーク・ワールド を発行していたジョセフ・ピューリッツァー Joseph Pulitzer との間に激しい闘いを繰り広げることになる。
ピーク時には、合衆国全土でハーストが所有する新聞社は26社を数え、42種の日刊紙に13種の雑誌、8局のラジオ放送局を擁し、さらに映画製作まで行うなど、総財産が(秘書の話によると)当時のお金で 4億ドルはあったという一大企業帝国を築き上げるに至るハーストの後半生は、このようにして幕を開けたのだった。
当時のアメリカ人のうち4人に1人はハースト系の新聞からニュースを得ていた…と言われるほどであった。「一大新聞網」を全米に築き、その上に王として君臨したハーストであるが、彼はメディア支配のためには記者の引き抜きなどは勿論のこと、多少の誤報道をすることさえも厭わなかった。
ハーストの帝国がその最盛期に抱えていた従業員はおよそ 4万人といわれるが、その富力と権力は凄まじいものだった。
彼の新聞記事によって世論と国政が操作され、米西(アメリカ・スペイン)戦争(1898年)が勃発する大要因を作ったとまで評されているが、一般大衆は映画を好んだのと同じように殺人事件やスキャンダラスな記事を売り物にしたハースト系新聞の論調を好んだ。
そのおかげで販売部数は飛躍的に伸びていくのだが、センセーショナルな報道を日常茶飯事のように読者に提供し続けるという、ハーストの倫理も道徳も無視したなりふりかまわないやり方は「イエロー・ジャーナリズム(インチキで扇動的なジャーナリズム。新聞中のコマ漫画"イエロー・キッド"の名前に由来するという)」という新語さえ生み出した。
以下は蛇足であるが、政治にも野望を抱いたハーストは、1902年の合衆国下院選挙にニューヨーク州から初出馬した。1904年には再選されたが、1906年の選挙では敗北している。
この短い政治経歴を作っている間でさえもハーストが手を休めることはなく、出版をはじめとするマスコミュニケーション界での支配を強めていった。
ハーストは晩婚で、結婚したのは1903年である。
時は1903年、場所はニューヨーク市、お相手は22歳のミリセント・ウィルソン Millicent Willson という元コーラスガールをしていた女性で、ハーストとは彼女が16歳の時からのつきあいだった。ハースト夫妻のハネムーンはヨーロッパ大陸を横断ドライブするという冒険的なものだったが、この経験は彼の最初の雑誌である「Motor」 の出版にむけて大きな動機付けとなった。ちなみに「Motor」は、現在ハースト・マガジンズとして知られている出版物の基礎になった雑誌である。
Millicent Hearst(1882-1974) |
後日談になるが、夫婦は子宝に恵まれて、ジョージ George(1904-1972)、ウィリアム・ランドルフ・ジュニア William Randolph Jr.(1908-1993)、ジョン John(1910-1958)、ランドルフ Randolph(1915-2000) とデヴィッド David(1915-1986:双子)という5人の息子を得ることになる。
また、チャーリーの自伝には「わたしの場合、ミリセント・ハーストとは1916年以来の親しい付き合いだったので…」と書かれているので、チャーリーがミューチュアルと契約してウキウキの頃、かなり早い時期からハースト夫妻と知り合っていたようだ。
さらに、チャーリーは自伝で「自分が出会った人々の中で一番印象の深い人物はハーストである」とも書いている。曰く、
「断っておくが、まことに立派な人柄ではあったが、印象は必ずしもいいものばかりではなかった。わたしが惹かれたのは彼の複雑な性格である。子供っぽいかと思えば、恐ろしく抜け目が無い。親切かと思えば非情。大変な力と富とを持っていたにもかかわらず、何よりもあの素朴さ、自然さ。世俗的評価から言えば、わたしが知ったかぎり、最も自由な人間だった」
Published : 03/14(Mon), 2005 by Ameyuje
Update : 07/04(Sat), 2020 by Ameyuje
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