David Wark Griffith / チャーリーの先輩 D.W.グリフィスについて | 日本と芸能事が大好きな Ameyuje のブログ

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米合衆国領土グアム島と仏領ポリネシアのタヒチ島とボラボラ島しか訪れた他国無し。比較対象が少ないのに「僕に一番合うのは日本」と思う。反日国に侮辱されても毅然とした態度をとらない現在の母国には「いやんなっちゃうな~」と立腹するけど、やっぱり日本が大好き。


David Wark Griffith


 デイヴィッド・ウォーク・グリフィス( D.W.Griffith : Born Jan 22, 1875, in Crestwood, KY ~ Died July 23, 1948, in Hollywood, CA )こそはアメリカ映画の父である。

 彼は Director であり、 Producer であり、 Writer であり、もとを正せば N.Y.ブロードウェイの Actor であった。


 アメリカに映画産業が勃興し、グリフィスは30歳を過ぎた頃に自ら映画界に身を投じた。最初はエジソン社のE・S・ポーター(世界初の衝撃的ドラマ「大列車強盗」の監督)の作品や、バイオグラフ社での作品演技者として参加していた。 ただ、彼はその間にも幾つかの小作品のストーリーを関係者に披露するなどして、周りからはアイデアマンとしても知られるようになっていた。

 

 映画史初の人間が銃で撃たれて死ぬシーンがあった

 

 グリフィスはアメリカ南部ケンタッキー州の没落した上流階級の家庭に生まれたという。
 この土壌が彼に短編小説や歴史劇を好んで書くような「ロマン主義者 そして 野心家」といった芽を植え付けたのかもしれない。彼はもともとディケンズやテニスンを好む作家志望の人物だったそうで、映画やその技術については当然ながら無知であった。 

 

 しかし、製作現場での偶然から監督を務めた「ドリーの冒険(The Adventures of Dollie(1908))」でバイオグラフ社の役員を満足させた彼は、1908年から1913年にかけて、単独で映画監督としての驚異的な成長を見せつつ、膨大な量の仕事をこなした。

 

 

The Adventures of Dollie(1908)

 

 さらに、その多くの仕事をこなす間に、グリフィスは『映画における物語の連続性表現が、複数の短いショットを巧みに構成することでも可能である』ことを証明して見せたのである。 彼が試みた映画撮影技術は、近代映画の撮影技術の基礎として評価されている。

 

 グリフィスはスペクタクル映画の製作においても才能を発揮した。 サイドライティングの活用やレフレクター(反射板)を用いたバック・ライティングなどの照明の工夫を始めとして、クローズ・アップの活用、ショット数の増加とカット構成の工夫といった技術面から新人監督や俳優の教育まで、彼が初期の映画界に与えた功績は大きい。

 

Mary Pickford - America's Sweetheart


 当然、多くの(後の)映画界のスター達にとって、グリフィスの作品はまさに成功者への登竜門であった。俳優や将来の監督達は、グリフィス監督とのスクリーン経験を通して多くの事を学び、そして巣立っていった。

 

 アメリカの恋人と讃えられたメアリー・ピックフォード( Mary Pickford )は100以上ものグリフィスの短編映画に出演したといわれる。  そのほかに Mack Sennett, Henry B. Walthall, Mabel Normand, Donald Crisp, Mae Marsh, Robert Harron, Lionel Barrymore, Lillian と Dorothy Gish姉妹, Blanche Sweet, Constance Talmadge, Carmel Myers そして Richard Barthelmess など、皆グリフィスの門下生といって良いだろう。  しかし、グリフィスの映画界における遍歴の前半は栄光に彩られているが、後半はある意味での挫折(財政的なつまづき)によって締めくくられるのだ。彼の作品群の中に歴史的な大作が二つある。

 

The Birth Of A Nation (1915)

 

 南北戦争時代を舞台にし、ある白人一家が時代の奔流の中で波乱万丈のドラマを繰り広げる様子を描いた「国民の創生 ( The Birth Of A Nation (David W. Griffith Corp., for Epoch Producing Corp., 1915)」では6万ドル近くの製作費と莫大な宣伝費を投じた。当時としては第一級の戦闘シーンの演出の巧みさや、映像美を追求したカメラワークなどは高い評価を受けて、商業的には成功した作品であったが、黒人兵士達の乱暴狼藉やKKK団の活躍を象徴的に描くなどの「人種差別」表現は非難をあびた。

 

 

  そこで彼は「国民の創生」で得た利益のすべてと、さらに膨大な製作費を投入して、彼の好むスペクタクル系の作品「イントレランス (不寛容: Intolerance (Wark Producing Corporation, 1916)」を作り上げる。

 

Intolerance(1916)

 

 複数の時代を交差させて描いたこの作品では、古代バビロンの歴史パノラマを大セットで表現、気球を用いた空撮に挑むなど、前代未聞の取り組みをしたがために100万ドルもの製作費が必要だったという。

この作品が商業的な成功を得られたならば、グリフィスの栄光は無謬のものとしてハリウッドの歴史に残ったであろう。しかし「イントレランス」で描かれる宗教上の闘争と不道徳な表現に対して、世評の風は冷たかった。 いずれにせよ「イントレランス」は商業的に大失敗に終わる。


 映画の芸術性を高め、幾多の俳優や監督を育て、撮影テクニックやそのスタイルを確立するという偉大な功績を残しながらも、グリフィスの後半生はこの失敗による財政難をもって、それまでの輝きを徐々に失って行くのである。

 

淀川長治先生とグリフィス作品

 

淀川長治先生が映画の洗礼を受けたと語られている「散りゆく花 ( Broken Blossoms (D.W. Griffith for United Artists, 1919))」も古典色豊かなグリフィスの代表作である。

 

Lillian Gish

 

 主演は、淀川先生が「野の百合の美しさだった」と讃えるリリアン・ギッシュ( Lillian Gish )リチャード・バーセルメス( Richard Barthelmess )で、二人とも代表的なグリフィス門下生といえる。

 

Broken Blossoms(1919)

 

 この映画が描くのは、仏陀の愛を広めようと渡英した中国人青年チェン・ハンが、ライムハウスという下町で出会った薄幸の少女ルーシーと繰り広げる愛と死の物語である。

 

 東は東、西は西…というけれど、愛には国境はない。「 LOVE IS BEST 」という言葉で幕を閉じるこの映画は、映画の神様に『神様、僕は、映画と一緒に暮らしたい!』と祈った淀川長治少年の将来を決定する大きな要因となった。

 

 

 

 

ユナイテッド・アーチスツの4人


 1919年の4月に、ダグラス・フェアバンクス( Douglas Fairbanks 写真左端)、チャーリー・チャップリン( Charlie Chaplin ) 、メアリー・ピックフォード( Mary Pickford 写真右端 ) 、そして D.W. Griffith らは、モーガン財団の援助を受けてユナイテッド・アーチスツ社( United Artists )を創設する。

 

 のちのち、淀川長治先生が勤めることになるのがこの会社でした。ニコ

 

 

執筆者への愛のムチを

頂けましたら幸甚ですニコ

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