【 第2話 仮面 (1) 】 【 第2話 仮面 (2) 】 【 第3話 初恋 】 【 第4話 渡米 】
【 第5話 転進 】 【 第6話 時代(1)】 【 第6話 時代(2)】 【 第7話 運命(1)】
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【 第4話 渡米 】
アメリカ行き… これこそチャーリーの待ち望んでいたチャンスであった。
「イギリスでは、もう先が見えたような感じがしていたばかりか、ステップアップする機会が限られていた。ほとんど教育を受けていない私としては、もしミュージック・ホールの役者として失敗すれば、残された道は召使いになるぐらいしかなかった」 と彼は自伝で告白している。
カナダ向けの家畜運搬船ケアンローナ号 CAIRNRONA に乗り、ネズミの群と荒天とに12日間悩まされながら大西洋を渡ったチャーリー。 ケベックから列車でトロントへ向かい、乗り換えた後、アメリカ入国管理所を通ってニューヨークに到着した。この後、コロニアル劇場の「ワウワウ」を振り出しにカルノー劇団のアメリカ巡業は1912年の6月まで、21ヶ月の長期間にわたって続くのである。
20世紀初頭の Madison Square Broadway の様子
ニューヨークそしてブロードウェイ! チャーリーは読み捨てられた新聞が道路や歩道の至る所で舞っているこの街を大企業の街だと感じた。
この街では何事によらずおそろしくテンポがせっかちなこと、そして誰もがむっつりと無表情にすまし込んでいることなどに驚きを感じると共に、ヨーロッパのような成熟した文化の香りがないニューヨークの昼の顔には幻滅してしまう。ニューヨークに来ても孤独なこの青年には、パリで知った人情味がよほど懐かしく思い出されたようだった。
しかし、やがて日が暮れて、ブロードウェイの夜の顔に出会うやチャーリーの印象は一変する。イギリスの凍るような9月の気候とは比較にならない暖かさ、そびえ立つビルディングには灯がともり、広告塔も明るく照らされ、街全体が宝石のようにきらめき出すその輝きのなかで 「これこそ僕の住む街だ!」 と彼は希望が胸に満ちるのを感じたという。
そしてその後のアメリカ巡業でも「生活費の安さ」に代表される暮らし良さというものが、チャーリーの気持ちをアメリカという新天地に傾斜させるのだった。
当時の彼の週給は75ドルだったが、小さなホテルならば1日三食付きで1週間あたりたった7ドルで泊まることができた。
また、当時の映画鑑賞最低料金と同じニッケル硬貨1枚(5セント)で、ビール一杯とバイキング方式のつまみが食べ放題だった。劇団の仲間が欲張って文字通り山のようにつまみを盛り上げた皿を持っていると、店員から「お前さん今からクロンダイク(ゴールドラッシュの地)にでもでかけるのかね?」とからかわれた話も自伝には記録されている。
劇団員達のほとんどは巡業で乗る汽車の寝台料金を払ったあとでも、給料の半分は貯金できたらしいが、チャーリーは仲間のさらに上手をいき、週のサラリー75ドルのうち、50ドルも毎週マンハッタン銀行に預金していたそうである。
Karno America劇団のManager
Alfred Reeves と 若き日の Charlie
"よぉし、本を読むぞ!ヴァイオリンやチェロの練習も頑張るぞ!" 人間が文化や芸術に時間をさけるということは、普段の衣食住がちゃんと満たされている証拠である。アメリカでの旅巡業の生活はチャーリーにその余裕をもたらしてくれた。ひたすら読書に励んだというのもこの頃からのことらしい。
1日に4~6時間もヴァイオリンやチェロの練習をした…というのは16歳の頃からの彼の頑張りだったようだが、これは基本的に「名誉と手に職を得るため」という欲得がらみの努力であった。
パントマイム役者だけで身を立てるよりはヴァイオリンの独奏者というステイタスと”舞台での新たな稼ぎのタネ”を得たいと言う彼の野望の一端だったわけだが、ヴァイオリンの才能に関してはやがて「自分は独奏者のレベルにはとうていなれない」と気づいてあきらめたと自伝に書いている(まず彼は耳で聴いて音を真似る練習をしたようで、楽譜の読み書きが苦手だった)。
しかし幸いなことに、この少・青年期に蒔いた彼の努力の種は後年、チャップリン映画の映画音楽という大きな花を咲かせ、膨大な興行利益という果実をもたらした。彼の努力は無駄にはならなかったのである。
ところで、異性に関しては彼の成長度はどうだったのだろう? 自伝に書かれた最初のアメリカ旅巡業の記述の中には、北米の各興行地や途中の街において体験したロマンスや紅燈街における娼婦達の話題なども記述されている。
昔も・・・
今も・・・
紅い燈火(レッドランタン)の下には娼婦達が居る
芸人と娼婦達はほぼ同類 置き屋には娼婦達が揃っている
サンフランシスコにおける初期の売春宿の女性達
日本語の「芸者」という言葉には、女芸者と男芸者がふくまれている
男芸者(幇間、役者、相撲取、その他色々)にも当然 身体を売るときがある
チャーリーの紅燈街(売春街)の思い出話から想像すると、イギリスでの苦い失恋経験以降、チャーリーがまったく木石のごとく、富への野望とアカデミックな野望ばかりで生きていたわけではないことがわかる。
恋は「乞い」だともいわれる…。こののち幾多の「恋」を彼は経験するが、それは「セックス」や「冒険」の別名であったりするだけで、その下流に待つ「愛」までたどり着けるような性質のものではなかったようだ。
青年時代のチャーリーは、人生の経験上「乞う」という感情は持ち得ても「相手を認め、与える」という余裕の感覚を持つことが苦手だったのではないだろうか。
人生の後半に、ポーレット・ゴダードという若いけれども成熟した人格と出会った頃にやっと少しだけ余裕が出てきているような気がする。
ただし、未来の彼にとっては、もうそのかなり前から情熱の矛先は女性よりも「映画製作」という仕事に向けられていた。どんな女性も(妻となった女性たちでも)彼の「仕事」という最強のライバルには太刀打ちできなかったのだ。
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Published : 6/22(Sun), 2003 by Ameyuje
Update : 5/9(Sat), 2020 by Ameyuje
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