本日は御歴代の天皇の中でも、転換期となられた天皇の祭日が重なっている日です。お二方とも、平安時代の貴族文化が華やかな時代ですが、同じ平安時代でもそれぞれ雰囲気がずいぶん違っているのも興味深く、それも時代を表しているといえるかと思います。


第六六代一条天皇は平安時代中期の天皇です。

御父は円融天皇、御母藤原詮子。円融天皇の第一皇子でした。

天元三年(980年)生。

御名は懐仁(やすひと)。

在位は寛和二年(986年)~寛弘八年(1011年)。

従兄弟にあたる先帝の花山帝がひそかに内裏を抜けだして出家した為、数え七歳で皇位につきました。これは寛和(かんな)の変と言われる事件で、花山帝は一条天皇を皇位に就けたい藤原兼家親子に計られたのです。藤原兼家は藤原詮子の父にあたり、一条天皇の外祖父にあたり孫を天皇に即位させ権力を掌握するために兼家親子は動いたのです。

一条天皇の治世には藤原道長が右大臣・左大臣を歴任しており、藤原氏の全盛期を迎えています。道長の娘の彰子は一条天皇の中宮になり、その彰子が生んだ皇子がのちに、後一条天皇と後朱雀天皇になります。

 

二葉より松のよはひを思ふには

今日ぞ千年(ちとせ)のはじめとは見る

双葉の頃から松の齢を思うと、今日が若宮の生きられる千年の初めと見ることよ。
彰子に敦長親王(御朱雀天皇)がお生まれになり、御百日(おんももか:生後百日の祝い、お食い初め)の夜に詠まれた歌。

藤原一族とは生前問題がなかったようですが、道長と彰子が一条天皇崩御の後、遺品の整理中に、藤原家への不満を綴った一通の手紙をみつけ、道長が焼き捨てたという逸話があり、いくつかの書に同様のことが残されています。実は、一条天皇の御世は、勝手をする藤原一族を一条天皇がうまく均衡させていた時代であり、藤原道長が目立っていたようでその実道長も合議制の原則の政策の下にあったといいます。藤原道長の名前ばかりがのちに言われるようにみえるのは戦後の事で、一条天皇の業績は大きくその時代が天皇の転換期になったともいえるのは、その後の天皇の追号や諱に表れています。一条天皇の前の天皇に「仁」のつく名前の天皇は清和天皇と醍醐天皇だけですが、一条天皇の四代後の後冷泉天皇以降、つまり一条天皇の御世の後に誕生の天皇は一部の傍系から即位された天皇以外、「仁」の名が通字となっていきます。また、一条天皇の第二皇子の敦成親王が後一条天皇と、初めて「後加号」となるのですが、その前には後加号された天皇はなく、こうした面からも一条天皇は転換期の天皇としての存在が大きいといいます。

 

 

 

 

またこの時代は平安女流文学が開花した時期です。『枕草子』を書いた清少納言は一条天皇の皇后定子に仕え、同じく皇后の彰子に仕えた紫式部が『源氏物語』を、また同じく彰子に仕えた和泉式部や赤染衛門は歌人として有名でした。こうしたそうそうたる女流文学のメンバーがすべて一条天皇の皇后に仕えていたのは特筆すべきことです。これは、天皇自身も文芸に深い理解があったことからの必然かもしれません。中国のあらかたの文献には目を通されていたことが当時の能吏であった藤原行成の日記『権記』に散見されるとのこと。

さらに、一条天皇は寒い夜に寝具を使わず寝ておられるので、中宮彰子がその訳を尋ねると「日本国の人民が寒かろうに、私だけ暖かく気持ちよく寝ては心が痛む」と答えたと彰子が語ったとして、関白藤原忠実の筆録集『中外抄』に残っている逸話があります。民のことをいつも考えて下さる天皇の大御心が表れた逸話の一つです。

また正歴四年(993年)頃疱瘡が大流行すると、租庸調を免除します。減税ではなく免除なのです。こうしたことは仁徳天皇から続く日本の伝統なのだと思います。

長徳三年(997年)長徳の入寇が発生します。対馬・肥前・壱岐・肥後・薩摩・大隅など九州全域が襲われ、民家が焼かれ、財産を略奪され、男女三百名が拉致されました。対馬をはじめとする日本海側の島々には、繰り返しこうした歴史があります

寛弘八年(1011年)崩御。

山陵は円融寺北陵。京都市右京区にあります。天皇の希望を思い出した道長によりこの地になりました。

 

円融寺は今はなく、その跡地にあるのは龍安寺です。

 

この時代を知ることが出来る古典のうちの一つ『大鏡』

冲方丁氏が国母となり86歳の長寿で太皇太后にまでなった一条天皇の皇后彰子の物語を描いた『月と日の后』

 
第七二代白河天皇は平安時代後期の天皇です。

御父は後三条天皇、御母は藤原茂子(もし)(贈皇太后)。

天喜元年(1053年)生。

御名は貞仁。

在位は延久四年(1073年)から応徳三年(1087年)。

この御代に、一条天皇の中宮であり、太皇太后となられていた曾祖母の藤原彰子は崩御されました。

父の後三条天皇は、一七一年振りに藤原氏を外戚としない天皇でした。そのため幼い頃は父子ともに冷遇されています。父帝はわずか四年で譲位し白河天皇即位後すぐに病気のため崩御されましたが、父帝同様の親政を目指し荘園整理を断行した他、北面の武士を登用して自ら武力を保持しました。

承保四年(1077年)、宋の神宋皇帝に返書及び進物を贈りました。宋は日本との外交関係を結ぼうと自筆の文書と多くの品物が送られてきていたのです。これはおよそ一八十年前に遣唐使が中止されて以来のことでしたが、大陸は直ぐに服属を要求してくるので関係を持たずにいたのです。


応徳三年(1086年)、皇太弟であった実仁親王が薨去され、父帝の意向だったもう一人の弟、輔仁親王を皇太子にという意図に反して、御自身の皇子である八歳の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立てられ、異論が出ないよう即日譲位されご自身は上皇となられました。以後、堀河天皇から崇徳天皇まで三代の長い間、上皇・法王として院政を敷き、その間に摂関家の機能停止化と受領階級の近親を用いた専制的な政治を行っていくのです。歴史の授業で必ず出てくる院政の始まりの天皇とされる白河天皇ですが、それを可能にしたのはほんの数年の御在位で改革された父君、後三条天皇がいらしたからでした。その権勢は後に、天下三不如意と呼ばれることとなります。これは、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と白河法皇が嘆いたという逸話からきています。つまり、「賀茂川の水とさいころの目と僧侶以外はどうにでもなる」と豪語したことになります。

 

なお、この山法師、僧侶に対峙するため北面の武士を登用したことが、後の武士の台頭の時代を導いていきます。


また多数の女性と関係を持ち、関係を持った女性を次々に寵臣に与えたことから、平清盛は白河天皇の御落胤であると噂されました。特に崇徳天皇が孫の鳥羽天皇の子ではなく白河天皇の子と噂されたのは前代未聞です。しかし鳥羽天皇の皇后待賢門院璋子のまけ(生理)の記録から、これは間違いないともいわれています。一方で、白河法皇にとり崇徳院は曾孫にあたり、皇室が曾孫をみるのは開闢以来初めてのこととして白河法皇が大いに喜んだともいわれており、異常に崇徳天皇をかわいがったとされる、その異常なかわいがりかたがこのような噂を生んだともいわれています。しかも近年の研究では、待賢門院が白河法皇と鳥羽天皇の連絡係を務めていたとされ、噂は近衛天皇が即位されてから出ていることから近衛天皇の母である美福門院派が流したともいいいます。

いずれしにしてもこのように囁かれる要因のあったことが、後に平安最大の怨霊の誕生を招く火種のひとつともなっていきます。

大治四年(1129年)崩御。

山陵は成菩提院陵。京都市伏見区竹田浄菩提院町にあります。


参照:『宮中祭祀』展転社
※祭日はこの本の日付によります。
『旧皇族が語る天皇の歴史』PHP新書
『怨霊になった天皇』小学館
『天皇のすべて』Gakken
『歴代天皇で読む日本の正史』錦正社

 

 

 

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