本日は二十四節季の小満です。小満とは、陽気が良くなり草木が成長して茂るという意味であり、農家では田植えの準備を始める頃。動物や植物にも活気があふれ、また秋にまいた麦の穂がつく頃なので安心する(少し満足する)という意味もあるそうです。また陽気高調して万物はほぼ満足するともいいます。生命の命に繋がる農業に生かされてきた暦ならではの名前だと思います。

 

 

さて、御歴代の天皇の歴史についてみるようになってから、諱(いみな)に興味を持ち、いつから通字(とおりじ)の「仁」が始まったのかを辿ったことがあります。

 

通字とは、家族で共通の字を使用したり、兄弟間で共通の字を使用する命名のことをいいます。わかりやすいのが徳川家の「家康」「家忠」「家光」の場合の「家」です。あるいは織田家の「信」は現在その家系のスケーター信成君まで引き継がれています。

 

そして皇室では、現在「仁」が通字となっています。

 

「仁」は「不仁」以外悪い熟語のない、また意味も素晴らしい意味だけとなっている漢字であり、皇室の理想も表している文字です。

 

この文字が諱として使用されたその始まりは、第五十六代の清和天皇につけられた惟仁(これひと)親王からでした。しかしすぐに通字となったわけではありません。

 

次に「仁」が名前として出てくるのは六十代の醍醐天皇、その次は六十六代の一条天皇、そしてその次は七十代の後冷泉天皇です。そして七十一代の後三条天皇からは、たまに抜けがあっても続くようになっていきます。

 

では、そもそも通字がいつから始まったのかを辿ってみると、第五十二代嵯峨天皇の皇子からで、最初は天皇の皇子毎の通字となっています。

★第五十二代嵯峨天皇。通字は「良」。

正良親王・・・後の仁明天皇

秀良親王

業良親王

基良親王

忠良親王

 

なお、嵯峨天皇は嵯峨源氏の始まりであり、臣籍降下した皇子がこの他に多くいます。

 

嵯峨天皇の弟、淳和天皇の皇子達は中途半端に通字かな?という状態となっています。これは嵯峨天皇が通字を始めたけれども、まだその概念が浸透していなくて混乱した命名になってしまったのでしょうか?

★第五十三代淳和天皇。通字「恒」「貞」。

なお、第二、第三、第四皇子は同母の皇子です。

第一皇子・・・恒世親王

第二皇子・・・恒貞親王⇒仁明天皇皇太子

第三皇子・・・基貞親王

第四皇子・・・恒統親王

第五皇子・・・内貞親王

 

しかし次の仁明天皇の時代以降は、通字が使われる場合は統一されて使われるようになります。

★第五十四代仁明天皇。通字「康」。

第一皇子・・・道康親王・・・後の文徳天皇

第二皇子・・・宗康親王

第三皇子・・・時康親王・・・後の光孝天皇

第四皇子・・・人康親王

第五皇子・・・本康親王

第六皇子・・・国康親王

第七皇子・・・常康親王

第八皇子・・・成康親王

 

★第五十五代文徳天皇。通字「惟」。

第一皇子・・・惟喬親王

第二皇子・・・惟条親王

第三皇子・・・惟彦親王

第四皇子・・・惟仁親王・・・後の清和天皇⇒通字「仁」の始まり

        惟恒親王

 

★第五十六代清和天皇の皇子、通字なし。

 

★第五十七代陽成天皇。通字「元」。

元長親王

元利親王

元良親王

元平親王

 

★第五十八代光孝天皇の皇子、通字なし。

 

★第五十九代宇多天皇。異母毎の通字。「敦」「斉」「明」。

敦仁親王・・・後の醍醐天皇

敦慶親王

敦固親王

敦実親王

斉中親王

斉世親王

斉邦親王

雅明親王

行明親王

戴明親王

 

★第六十代醍醐天皇。通字「明」。

第一皇子・・・克明親王

第二皇子・・・保明親王⇒皇太子

第三皇子・・・代明親王

・・・省略

第十四皇子・・・寛明親王・・・後の朱雀天皇

第十六皇子・・・成明親王・・・後の村上天皇

 

★第六十一代朱雀天皇、皇子なし。

 

★第六十二代村上天皇。通字「平」。

第一皇子・・・広平親王

第二皇子・・・憲平親王・・・後の冷泉天皇

第三皇子・・・致平親王

第四皇子・・・為平親王

第五皇子・・・昭平親王

第六皇子・・・昌平親王

第七皇子・・・守平親王・・・後の円融天皇

第八皇子夭折

第九皇子・・・具平親王

第十皇子・・・永平親王

 

★第六十三代冷泉天皇。通字「貞」。ただし第二皇子まで

第一皇子・・・師貞親王・・・後の花山天皇

第二皇子・・・居貞親王・・・後の三条天皇

第三皇子・・・為尊親王

第四皇子・・・敦道親王

※第二、第三、第四皇子は同母皇子

 

★第六十四代円融天皇。第一皇子のみ。

第一皇子・・・懐仁天皇・・・後の一条天皇

 

★第六十五代花山天皇。通字なし、ただし「仁」使用。

清仁親王・・・花山源氏の祖

昭登親王

 

★第六十六代一条天皇。通字「敦」。

第一皇子・・・敦康親王

第二皇子・・・敦成親王・・・後の後一条天皇

第三皇子・・・敦良親王・・・後の後朱雀天皇

 

★第六十七代三条天皇。通字「敦」。

第一皇子・・・敦明親王・・・後一条天皇の皇太子

第二皇子・・・敦儀親王

第三皇子・・・敦平親王

第四皇子・・・師明親王・・・性信入道親王

 

★第六十八代後一条天皇。皇子なし。

 

第六十九代後朱雀天皇以降、一部の例外を除き、皇子の名前は「仁」が通字となっていきます。ただし、上記でも皇統から外れることが分かっている皇子には通字がつけられてない場合があるように「仁」が天皇の皇子の通字となった後でも「仁」がつけられない場合もありました。

そして、そうした通字「仁」のついてない皇子が即位されることもありました。

 

第八十代高倉天皇

第一皇子・・・言仁親王・・・後の安徳天皇

第二皇子・・・守貞親王・・・後高倉院⇒後堀河天皇

第三皇子・・・惟明親王

第四皇子・・・尊成親王・・・後の後鳥羽天皇

 

安徳天皇は平清盛の孫でもありましたが、平家滅亡のおり三種の神器とともに連れ去られてしまいます。またこの時、まだ幼い安徳天皇の皇太子に疑されて異母弟の守貞親王も一緒に連れ去られていたため、守貞親王の同母弟の尊成親王が後白河天皇により即位させられました。それが後鳥羽天皇です。安徳天皇が生まれた後、まさか平家が滅ぶなど思いもよらなかったことでしょうから、言仁親王の年の近い異母弟の誕生に皇統が約束される通字の「仁」を使用した命名などできなかったことがうかがわれます。

 

第八十二代後鳥羽天皇

第一皇子・・・為仁親王・・・後の土御門天皇

第二皇子・・・長仁親王・・・道助入道親王

第三皇子・・・守成親王・・・後の順徳天皇

第四皇子・・・雅成親王・・・六条宮

第五皇子・・・頼仁親王・・・冷泉宮

第六皇子・・・朝仁親王・・・道覚入道親王

第七皇子・・・寛成親王・・・尊快入道親王

 

土御門天皇が穏和であったのと対照的に、守成親王は激しい気性であったことから鎌倉幕府と対立する後鳥羽天皇から期待され、土御門天皇へ弟への譲位を促し即位されることとなりました(順徳天皇)。こうした性格は成長しないとわからないものですが、守成親王は二人の同母弟(雅成親王と寛成親王)と同様皇統へ連ねるつもりはなかったのがその命名からわかります。一方で、他の兄弟たちは土御門天皇のスペアとして通字で命名され、皇統の安定の後仏門へと入れられたことがわかります。

 

そして面白いことに、土御門天皇の皇子には通字「仁」が使用されているのに対し、順徳天皇の皇子達はこの通字が使用されていないのです。つまり、承久の変で朝廷が負けていなければ、治天の君であった後鳥羽上皇は土御門上皇の皇子へ皇統を戻したのかもしれないと考えられるのです。

 

第八十四代順徳天皇。通字「成」。

第一皇子・・・尊覚法親王

第二皇子・・・覚恵法親王

第三皇子・・・懐成親王・・・後の仲恭天皇

第四皇子・・・彦成親王

第五皇子・・・忠成親王・・・岩倉宮

第六皇子・・・善統親王・・・四辻宮

 

承久の変の後、鎌倉幕府は後鳥羽天皇の血筋を嫌い、後鳥羽天皇の同母兄の守貞親王の皇子を次の天皇とさせました(後堀河天皇)。しかしその皇子の四条天皇が幼いまま事故で崩御されたため、後鳥羽天皇の血筋へ戻らざるをえなくなった時、承久の変へ乗り気でなかった土御門天皇の系統へ戻るのが必然とされました。これは傍系の順徳天皇へ行きかけたのを戻す意味でも順当であったことになります。

 

しかし、そうして即位された御嵯峨天皇の二人の皇子が治天の君を争うようになったのは、後嵯峨天皇により同母弟に譲位させられたことに端を発しているのが皮肉に思えます。当然、後深草天皇(持明院統)も亀山天皇(大覚寺統)もその皇子の命名には通字の「仁」を使用しています。

 

ところが、亀山天皇の皇子で、亀山天皇の次に皇位につかれた後宇多天皇の皇子達には通字「仁」が使用されていないのです。

 

第九十一代後宇多天皇。通字「治」。

第一皇子・・・邦治親王・・・後の後二条天皇

第二皇子・・・尊治親王・・・後の後醍醐天皇

第三皇子・・・性円法親王

第四皇子・・・承覚法親王

第五皇子・・・良治親王・・・性勝法親王

 

そして以降、後二条天皇も、後醍醐天皇も、その後の南朝の天皇も皇子達に「仁」は使用しません。後二条天皇は「邦」、後醍醐天皇は「良」を使用し、次の後村上天皇は「成」を使用しています。

 

第六十九代後朱雀天皇の第一皇子親仁親王(後冷泉天皇)に「仁」が通字とされたのが1025年で、以降ほぼ全ての皇統に連なる皇子の通字となっていますから、後宇多天皇の第一皇子邦治親王(後二条天皇)に命名される(1285年)まで既に260年間続いています。

 

そんな中で、伝統を重んじる朝廷で大覚寺統では「仁」を通字としなくなったことには、なにか深い考えがあるように思えます。

 

後宇多天皇には、ご自身が即位した(即位させられた)ことから始まった治天の君争いという意識があったのではないかとさえ思えてきます。機会があればもっと探求したいテーマです。

 

後宇多天皇が即位されたのが1260年、そして後亀山天皇が後小松天皇へ三種の神器を引き渡した南北朝合一をみるのが1392年、実に132年朝廷の分裂は続きました。

 

以降、天皇となる皇統に生まれた皇子の諱には全て「仁」が使用されています。

 

すめらぎのおはなし・・・仁があらわすもの

 

 

 

最後に50音セラピーから、「仁(ひと)」を紐解こうとしたら興味深いものとなりました。

 

「ひ」

人類は火(ひ)の使い方を覚えて進化しました。人が人らしくあるために必要なのが火です。また日(ひ)は太陽のことです。初日の出を拝んだり、国旗が日の丸であることからもわかるように、古代より太陽を重視する日本。日本の根幹のようなことだまです。

「ひ」には、やる気を起こさせ、成長させる力があります。一方でゆとりがないと引き籠ったり独りよがりになることもあります。またやる気をうばうこともあるので、そんなときは太陽の温かさを思い出すようにします。

「ひ」にはやる気を起こさせ人の後押しをする使命もあります。

 

「と」

自分の生まれた土地の守り神が祀られている神社を産土神社といいます。赤ちゃんが生まれたら産土神社にお参りに行く風習があるように「と」は命を授けてくれた土地に感謝することの大切さを意味します。

また一(ひい)二(ふう)と始まり十(とお)で終わるように、一区切りつけて次の段階に行くことでもあります。「と」は次のステージの扉が開く音なのです。「とどめをさす」ように次への動きがなくなってしまうこともあります。武道、茶道などの道を追求する日本人は単に終わることを良しとしません。終わりは新たな始まりだと意識するようにしましょう。

「と」には終わったら始まるという日本人の終りなき世界観を表してもいます。土地からもらったパワーに満ち次の段階への扉を開く使命があります。

 

今まで「仁」の意味は何度も見ましたが、その意味には天皇の理想や目指すものが現れている文字となっていました。まさか、「ひと」という音霊、言霊の意味も同様であるとは思いませんでした。今、ふいにこの本を開いて読んでその不思議さに感動さえ覚えています。しかし言葉を大切にしてきた皇室だからこそ、こういう言霊の文字を選んだのだといえるのかもしれません。皇室の歴史をみると慎重に事を進めていくことがよくわかるのですが、最初に清和天皇の諱に「仁」が使用されて(850年)通字として定着する後朱雀天皇まで(1009年)に159年経っています。伝統とはこうして作られていくのだということが、天皇の歴史をみると見えてきます。

 

 

 

 

慎重にがんばっていこう\(^o^)/