すめらぎのお話・・・追号

 

先日天皇の名前、追号についてのお話をしましたが、追号には他に加後号があります。

 

加後号とは、字の通り、先の天皇の号に「後」をつけたもの。これは後をつけることにより皇統の持続性が見える追号となりますので、正統性を主張するために生まれたと言われています。

 

加後号の最初は、父の号に後を付けた後一条天皇から始まりました。後一条天皇は退位を促す藤原道長の圧力に屈した三条天皇から譲位され9歳で即位したという経緯がありました。道長は後一条天皇の母方の祖父に当たり、自分の孫を天皇に即位させたくて三条天皇には相当な圧力をかけていたことが伝わっています。

 

即位後に皇位争いにも絡む乱が生じた後白河天皇も長い院政の後でも加後号で正統性を主張しています。これは最大の怨霊となってしまった同母兄の崇徳天皇の存在を考えると加後号は絶対不可欠だったのだと思います。

 

また平家が三種の神器を持ち出したため三種の神器なしでの即位となった後鳥羽天皇はそのため生涯コンプレックスを持っていたとも伝わりますから、やはり必要不可欠な加後号だったといえます。そして朝廷分裂となっていった鎌倉後期、また室町幕府の圧力が強くなった時代、加後号が増加していきます。

 

※青字は遺詔、あるいは生前から加後号を定めていた例です。

 

親子の加後号

後一条天皇

後伏見天皇

北朝の後光厳天皇

後桜町天皇

後桃園天皇

 

朝廷が二つに分かれていた頃持明院統の天皇として即位された後伏見天皇は、両統送立のためわずか3年14歳で大覚寺統の後二条天皇に譲位させられました。そのためか父の伏見天皇からの加後号を遺詔されています。

 

北朝の後光厳天皇は、南北朝の戦いの真っ最中、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇の三上皇及び皇太子の直仁親王まで拉致され南朝に連れ去られていた時に、即位されました。本来は妙法院への入室が予定だったところ北朝の天皇になりました。そんな状態の即位ですから、やはり加後号が必要と思われたのでしょう遺詔されています。

 

しかし後桜町天皇と、後桃園天皇の場合は、そういう正統性の主張というよりは、普通に親子だから加後号されたのだと思えます。

 

 

祖父や曽祖父の加後号

後三条天皇:母方の祖父の三条天皇・・・生前から追号を名乗っていました

後白河天皇:曽祖父の白河天皇

後鳥羽天皇:曽祖父の鳥羽天皇

 

後三条天皇は、皇子のないまま崩御された異母兄の後冷泉天皇の後、170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇として即位しました。そのためか道長の圧力で譲位した母方の祖父の三条天皇を意識していたのかもしれません。生前から後三条としての自覚があったといいます。

 

 

 

二例目の加後号となった後一条天皇の同母弟である後朱雀天皇の場合は、兄にならった加後号かもしれません。曽祖父の兄である朱雀天皇に加後号となっています。既に加後号をされていたらその天皇の号に加後号はできませんから代を遡る例も増えて行きます。また生前から加後号を決められる天皇も増えていきました。

 

何世も遡る加後号

後朱雀天皇:曽祖父の兄の朱雀天皇から

後冷泉天皇:曽祖父の兄の冷泉天皇から

後堀河天皇:五世前の堀河天皇から

後嵯峨天皇:十七世前の嵯峨天皇から

後深草天皇:十七世前の仁明天皇の異称「深草」から

後宇多天皇:十六世前の宇多天皇から

後二条:六世前の二条天皇から

南朝後醍醐天皇:二十世前の醍醐天皇から

北朝後円融天皇:十七世前の円融天皇から

南朝後村上天皇:十六世前の村上天皇から

南朝後亀山天皇:四世前の亀山天皇から

北朝後小松天皇:二十二世前の光孝天皇の異称「小松」から

後花園天皇:五世前の花園天皇から

後土御門天皇:十世前の土御門天皇から

後柏原天皇:二十八世前の桓武天皇の異称「柏原」から

後奈良天皇:二十八世前の平城天皇の異称「奈良」から

後陽成天皇:二十七世前の陽成天皇から

後水尾天皇:二十九正前の清和天皇の異称「水尾」から

後光明天皇:十二世前の北朝の光明天皇から

後西天皇:三十三世前の淳和天皇の異称「西院」から

 

 

兄弟間の皇位争いを誘発してしまった父である後嵯峨天皇は嵯峨天皇の名前に加後号し遺詔していましたが、その子である後深草院は嵯峨天皇の皇子であった仁明天皇の異称に加後号したものを遺詔しており、弟ばかり優先された兄の悲しさが加後号にまで現れています。この由来には涙が出ます。後仁明ではなく異称の後深草を選んだのがよけい悲哀を誘うのです。

 

後深草天皇の同母弟の亀山天皇は加後号ではありませんが、父の後嵯峨天皇が嵯峨野に建造した離宮の亀山殿を伝領しており、嵯峨の地を残された後嵯峨の後継者として亀山と遺詔しています。これは先に崩御された兄の加後号から、意地をみせたのかもしれません。しかし、兄弟揃って崩御後も後継の正統性を主張したことは、その後も子孫が争い続ける禍根となったかもしれません。皇統が二分し後に南北朝にまで分かれる根深さが親子の天皇号からも見えてきます。

 

しかも親子が加後号にした嵯峨天皇が中心となって弟と我が子と交代での皇位継承を行っていたことが、後嵯峨上皇の皇子達である持明院統と大覚寺統の両統送立での皇位継承の先例になっています。後嵯峨天皇にそこまでの意識があったのかどうか、歴史は皮肉な巡り合わせをするものです。

 

 

追号を決めていたことで有名な後醍醐天皇は、醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としており醍醐天皇にあやかり生前自ら後醍醐の号を定めていました。また父は後宇多天皇であり、宇多天皇と醍醐天皇の父子に模した正当な後継者の位置づけもあったといいます。大覚寺統から南朝まで発展させ、完全に朝廷を二つに分けるきっかけを作ってしまった後醍醐天皇は幕府により廃位されたのを無効としたこともあり、やはり皇位の正統性を加後号で主張する必要があったのです。

 

 

北朝の後円融天皇が十七世も前の円融天皇の名前に加後号として遺詔されたのは、どのご先祖様よりも縁を感じたからかもしれません。後円融天皇は石清水八幡宮社務法印(僧位の最高位)であった紀通清の娘藤原仲子が母でした。その石清水八幡宮に行幸されその後、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されるきっかけを作られた天皇が円融天皇なのです。

 

 

北朝の後小松天皇の時代に明徳の和約が成立し南北朝が統一されました。その天皇が光孝天皇の異称を加後号として遺詔されたのは、光孝天皇が皇統の転機となった天皇であったからかもしれません。以降、後小松天皇の北朝の系統が現在まで続く系統となっていきます。

 

 

後水尾天皇は父の後陽成天皇と折り合いが悪く、父には問題があって退位させられた陽成天皇の名を加後号してしまいます。一方でご自分にはその陽成天皇の父だった清和天皇の異称を遺詔として定めており、親子の確執が加後号にまで現れた形となっています。

 

 

この他に、加後号ではありませんが、歴代の天皇号を組み合わせた天皇号があります。

 

称光天皇は、徳天皇と仁天皇から

明正天皇は、元天皇と元天皇から

霊元天皇は、孝天皇と孝天皇から

 

明正天皇の場合は、同じく女帝で母娘で皇統の継承を行い様々な成果のあった時代の天皇の名前にあやかったという事がとても分かりやすい例だと思います。

 

 

 

名前は呪、祈りであるといいますが、天皇の追号からでも色んなことがわかると思いませんか?特に加後号には、歴代の天皇の悩みや悲しみ、怒り、あるいは不安定さ、またその理想までが表れているのです。

 

 

(すめらぎいやさか)

天皇弥栄!

 

 

本日は敬老の日の由来についても考えて欲しい↓

http://ameblo.jp/amethuchihajimete/entry-12200308844.html