本日は旧暦6月18日ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。

 

伏見宮家は崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。

 

第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。


貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことになります。称光天皇までは崇光天皇の同母弟である後光厳天皇の系統でしたので、貞成親王は嫡流の崇光院系に戻ったことを喜び「椿葉記(ちんようき)」をあらわして帝王の徳を諭し、後花園天皇もこれに応えて徳行を重ねたといいます。

 

しかし、後花園天皇はその後の宮廷行事においてことあるごとに、後小松上皇の後光厳流系統か、伏見宮家の崇光流系統かの選択を強いられ二つの皇統で揺らいでいくことになります。そして選ばれたのが、貞成親王へ尊号宣下を行う時に兄としてなされたことでした。これは、貞成親王が、親王宣下を受けるために後小松天皇の猶子になっていたことから、その後同じく猶子になった彦仁親王はその弟とされたのでした。そしてこうすることで、後花園天皇が後光厳流皇統のまま、貞成親王が崇光流皇統の上皇として、持明院統の二つの皇統の併存が可能となり、百年続いた皇統の分裂を解消させ、さらに伏見宮家を天皇と近い血筋の世襲親王家として存続させることができたのでした。

 

さらに後花園天皇は皇子の成仁親王には、伏見宮家に敬意を表することを説いており、世襲親王家として特別に遇しました。

 

しかし後に崩御後、火葬された後、遺勅により光厳天皇陵の域内に移されたのは、後光厳流皇統と崇光流皇統に長く翻弄されてきたため、皇統が分裂する前の光厳天皇を志向されたのだといわれています。


御在位中は、室町幕府の時代で将軍は、六代義教、七代義勝、八代義政です。

 

長い治世でしたから、様々な事が起きております。近江の正長の土一揆は農民が初めて起こした一揆でした。その他、地侍の一揆、「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の乱」「享徳の乱」「長禄・寛政の飢饉」「長禄合戦」が起き、延暦寺僧侶の訴訟に関わる騒動、「文安の麹騒動」もあります。これは幕府と守護達が互いに争うことが続いていたことによるもので、「嘉吉の乱」においては将軍足利義教が暗殺されています。そこに、台風や大雨による水害や飢饉や旱魃、虫害、疫病も起こり、一揆が発生するなど治安が悪化しました。

 

天皇は時にこれらに対して論旨を発するなどの政治的役割を果たした他、疫病・飢饉の際の将軍足利義政の贅沢を戒めています。そのため天皇は「近来の聖主」と称えられました。

 

義政を戒めるために送った詩

 

残民争いて採る首陽の蕨
処々廬を閉じ竹扉を鎖す
詩興の吟は酣なり春二月
満城の紅緑誰が為に肥えたる

 

⇒災害に虐げられた民たちが首陽山のワラビをわれさきに採り、いたるところでわびしい住まいを閉ざし竹の扉に錠をおろしている。誌を吟じようにも気持ちの痛ましい二月、都に満ちる赤い花と緑の葉は一体誰のために茂っているのか。

 

これは飢えに苦しむ庶民と有楽を事とする天上人を対比する戒めの内容となっています。

 

こうした天皇の行動は、皇室の二つの家訓によるものと紐解く『和歌で読み解く天皇と国民の歴史』。そしてこれこそが、長く続く我が国の芯となる天皇と皇室を表すもの。

 

同時代には、朝鮮半島では李朝第四代の世宗が「訓民正音」というハングル文字を公布しましたが、明治時代に寺内正毅初代総督が取り上げ学校教育にも取り入れるまでは使用されませんでした。現在朝鮮半島にハングル文字が広まっているのは、明治時代の先人たちの功績です。

 

欧州ではオスマントルコの攻撃を受けコンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡しています。

 

そしてこの頃「新続古今和歌集」が勅宣により撰上されています。


在位三十七年で皇子の成仁(ふさひと)親王に譲位し(後土御門天皇)、院政を行いましたが「応仁の乱」が起きると自らの不徳を悟り出家されました。これは仁政と徳治を理想として掲げていたことにより、限界を悟られたのだといいます。

 

この時代は乱世へと続く時代で、この後の天皇は困難な時代となっていきますが、そうした時代でも変わらず凛とした姿勢を天皇が貫くことができたのは、こうした時代の始まりに後花園天皇の存在があったことも大きかったのではないかと思われます。見本となる方の存在があるというのは、困難な時代には指針になり、人々を支えるということなんだと思います。そうしたバックボーンがあるか、ないかの違いは大きいと思います。
 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇100話」
「歴代天皇で読む日本の正史」

「室町・戦国天皇列伝」

 

 

もう何年も世界情勢が不穏で、ウクライナ情勢も決着がつかずトランプ暗殺未遂事件も起きました。国内では、安倍元首相暗殺が起きて2年が過ぎましたが、未だに裁判もされておらず、今の時代がまるで昭和初期の戦争直前の頃のようだといわれるようになって久しいですが、この後花園天皇の時代、つまり戦国時代の始まりのようにもみえます。このときも、将軍暗殺が起きています。ただ、この将軍暗殺が安倍さんと違うのは、この時の将軍に将軍としての力がないのに対し安倍さんが世界中から惜しまれるほどの、外交力のあった政治家であったということ。そうした方には、誰かしら後に続こうとする人が現れる(はず)だろうということです。

 

有能であったからこそ敵も多く、国内にいる敵がこれほどの人物のことを未だに貶めようとしていて、そのような本も出版されています。一方で、安倍さんを惜しむ本もたくさんあります。

 

私は安倍さんを全て支持していたわけではありませんし、ここで批判を書いたこともあります。しかし、安倍さんのことは好きでしたし、外交力には感嘆していました。また、なぜこんなことを?と思うようなことが後から深い意味があったことが何度もあったことから、信頼もしていました。それになんといっても、拉致被害者達の内5人が帰国できたのは安倍さんの功績です。拉致被害者奪還のための地固めのために動いてもいました。拉致被害者達の希望の一つである政治家でもあったのです。1周忌に増上寺で一般献花がありましたが、大勢の方がお参りしていました。この2年間の国内政治情勢をみれば、安倍さんがいれば、こうはなっていなかっただろうということが多くありますし、世界情勢も安倍さんがいれば、もっと世界の対応も違っていたのではないか?と考えてしまいます。

 

映像からも、沖縄を想って作られた歌なんでしょうが、日本が列島であることから日本そのものの歌にもなっているという二重に日本を想う山口采希さんの歌。

この歌を聴くと、江崎道郎さんの、国や政治家が、ではなく、私たちがどうするかが問題なんだ、という言葉が浮かびました。以下のブログは、皇室についてとやかく言うのではなく、私たちがどうあるべきかとの問いかけですが、インテリジェンス等にもお詳しい江崎氏は、政治関連等でも常に、私たちがどうあるべきかが大切である、と語っています。

 

 

 

 

 

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