第八五代仲恭(ちゅうきょう)天皇は鎌倉時代初期の天皇です。


生年は建保六年(1218年)。


御父は順徳天皇、御母は九条良経の娘、東一条院・藤原立子(りゅうし)。


御名は懐成(かねなり)親王。


承久三年(1221年)四月二十日、順徳天皇は北条討伐準備に参加するため第四皇子の懐成親王へ譲位。四歳で践祚を受け即位。


この頃鎌倉では三代将軍の源実朝が暗殺され、五摂家の九条家から源頼朝の妹の曾孫にあたる頼経を将軍に迎えることになっていました。しかし、赤子であったためその成長を待っていた将軍不在の時でした。この不安定な時期に、天皇の御祖父の後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の執権北条義時追討の院宣を発し、天皇にも同様の宣旨を出させ挙兵したのが五月十四日でした。翌十五日には全国へも義時追討の宣旨を発布し、上皇の元へ馳せ参じよと勅命を出されました。


一方鎌倉では、北条義時が嫡男泰時を総大将として東海道から京へ向け軍勢を送り、次男の朝時、弟の時房を大将軍として北陸・東山の二道から京へ上らせます。この時、泰時は途中で引き返し、天皇(順徳)自ら兵を率いてこられた場合の対処について義時に尋ねました。義時は「天皇に弓は引けぬ。直ちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。京から兵だけ送ってくるのであれば力の限り戦え。」と命じています。


二十一日鎌倉を発した幕府軍は、宇治川と京の防衛線を突破して、六月十五日には京を制圧しました。義時追討の宣旨から僅か一か月後の事。これが承久の変です。教科書では戦後「承久の乱」と教えられるようになりましたが、本来は承久の変あるいは承久の役といわれる事件です。

 

 

破れた朝廷方は厳しく処罰され、後鳥羽院は隠岐に、順徳院は佐渡に流され、挙兵に反対していた土御門院も自ら土佐に赴き、幼い仲恭天皇は廃帝とさせられました。


仲恭天皇は戦火を避け、三種の神器を内裏に置いたまま摂政九条道家の邸宅に身を潜めていました。在位二か月余りで即位礼も大嘗祭も行われないまま退位させられたため、天皇号も贈られず、「九条廃帝」「半帝」「後廃帝」などと呼ばれ、歴代天皇にも数えられませんでした。天皇の名前は崩御後に諡号が贈られるか追号されるもので、在位中の天皇に名前はありません。在位中の天皇はただの「天皇」または「今上天皇」と呼ばれます。「天皇」という言葉を使っていない時代も「帝」あるいは住んでいる地名などで呼ばれたりもしました。また譲位した後も「院」などと呼ばれ、崩御されるまで名前はないのです。仲恭天皇に「仲恭」という諡号が贈られ歴代天皇に加えられたのは明治三年(1870年)、それまで630年以上、天皇として認められず名前がありませんでした。


仲恭天皇は幼児で将軍九条頼経の従兄弟であったことから、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた滋円でさえ鎌倉幕府を非難し、仲恭天皇復位を願う願文を納めています。


在位期間は、承久3年(1221年)四月二十日~同年七月九日。三か月にも満たないわずかな期間で、御歴代天皇中一番在位期間の短い天皇です。


天福二年(1234年)、十七歳で崩御。この若さでの崩御には、その呼び名も関わっているのではないかと思います。崩御後、諡号・天皇号も贈られないまま「九条廃帝」「半帝」「後廃帝」などと呼ばれたということは、生前もそう呼ばれていたであろうことを意味するからです。御歴代の天皇をみてもお住まいで呼ばれていた天皇がその名前を諡号とされた例が何度もあります。四歳で即位され数カ月で廃帝にされた後、成長期に「九条廃帝」「半帝」「後廃帝」などと呼ばれ、父も祖父も叔父までもが流罪になり後ろ盾もないまま育ったことを考えると、皇統に生まれることの厳しさをあらためて考えさせられます。名前は呼び名、あだ名であろうともその人に与える影響がとても大きい、重要なものです。

 

 

御陵:九条陵、京都市伏見区深草本寺山町。

 

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京都の東福寺駅から東福寺に向かう街道に出る手前には仲恭天皇の御陵の参道碑があります。しかし、実は仲恭天皇がここにお眠りになられていたわけではありません。仲恭天皇の御陵の記録はなく、崩御された場所に因んで現在の御陵はあるのです。ただし、廃帝塚と呼ばれる場所があり、そこは現在陵墓参考地となっているそうです。 
 
この近くには御寺湧泉寺があり多くの天皇の御陵がありますが、御陵においてもお寂しい天皇となっています。 
 
なお御陵が空であることが分かっている天皇が何人かいらっしゃいますが、御陵はお祭りされるときの指標のようなもので、空であろうがなかろうがそれは関係ないと竹田恒泰さんがおっしゃっていました。お祭りされること、祈られることが大切であるということです。

 

『まんが古事記』のふわこういちろうさんの動画で、各地の神社や御陵についてアップされています。

 

参照:「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記からです。
「怨霊になった天皇」小学館
「天皇を知りたい」Gakken
「天皇のすべて」Gakken
「歴代天皇で読む日本の正史」錦正社

 

 

承久の変が起きたのは800年前の満月の時期です。日本で起きた大きな事件、有名な事件を辿ると満月、新月の時期ということがよくあります。なぜそれがわかるかというと、旧暦で見ていくと一日は新月、15日は満月に当たるからです。多少のずれがあったとしてもその時期であることに変わりありません。もしかしたらこの満月が、三人の上皇と幼い天皇の運命を決めてしまったのかもしれない・・・などと考えてしまいます。

 

 

令和の御譲位の前後から、諱に天皇をつけた記事や即位していない皇族に天皇とつけた記事などが出るようになりましたが、崩御後に名前が贈られることを知ると、いかにこれが礼を失した行為であるかがわかりますし、そうした記事を書くことの異常さも浮き彫りにしています。日本人の教養として、こうしたことはきちんと知っておきたいものですが、それをきちんと教えてこなかったのが戦後の日本です。機会があるたびにこうしたことが、さらっと広まり多くの人の共通認識となっていけばいいと考えています。

 

 

 

 

 

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