第九代開化天皇は伝承上とも言われる欠史八代の時代の天皇です。 これは古事記、日本書紀共に開化天皇のご事績の記載がないことからいわれていることです。しかし、それは平和な時代であったことの証ともいえるという説と、この時代は近隣平定で忙しい次代であったから最小限の記載しかなかったという説があります。
 

記紀においてもっとも力を注いで記しているのは御歴代の系譜であるから、御事績がないからと言ってそれを退けるのはおかしいと森淸人氏は「建國の正史」に書かれています。そもそも記紀は系譜の書であるということです。つまりそれが必要最小限の記載ということです。

 

 

孝元天皇七年生。


御名は古事記では若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)、日本書紀では雅日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)。


御父孝元天皇の第二皇子、御母は内色許売命/鬱色謎命(うつしこめのみこと)。

 

欠史八代と言われる時代の前半は、水田耕作の普及により大変豊かになり平安な時代でしたが、豊かになることによってその周辺からそれを狙われるようになりました。孝元天皇までの四代は大乱の時代だったといいます。

 

この時代戦った相手とは吉備です。つまり桃太郎伝承とはこの大乱の時代のことだったのです。孝元天皇を含めた「孝」が名前に入った前の四代の天皇の時代には「吉備」の字がついた命が四人いますが、その四人がいわば桃太郎で吉備と戦いましたが孝元時代までは負けが続いていました。しかし孝元時代に祭祀王を、神武天皇の時代にならって女性にしたことにより勝つことができました。開化天皇は「孝」四代の戦乱を片付けて開化したことを意味しているとのこと。なおこの開化という漢風諡号は奈良時代に淡海三船により御歴代天皇に一撰進されたものです。

 

 

開化天皇は孝元天皇二十二年に立太子し、同五十七年に孝元天皇の崩御にともない即位されました。その際、宮を春日率川宮に遷されました。宮の伝承地には春日野の東端野田の四恩院付近説と奈良市本子守町の率川神社付近説がりますが、陵墓との位置関係から、率川神社付近が有力視されています。

 

 

四恩院跡地には現在国際フォーラムがあります↓

 

なお率川神社の御祭神は初代神武天皇の皇后様、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)とその祖神である狭井大神(さいのおおかみ)と玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)です。

 

開化天皇六十年崩御。


御陵は春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのうえのみささぎ)、奈良市油阪町にあり、春日率川宮跡の率川神社の近くにあります。

 

初代神武天皇から第八代の孝元天皇までの陵墓が、畝傍山麓から葛城山麓一帯にかけて広がるにのに対し、開化天皇の陵墓が春日山、及び次代の崇神天皇の陵墓が三輪山麓に移っているのは政治の中枢が移ったからと推定されています。

 

竹田恒泰さんの竹田学校動画の決史八代は実在した!

 

 

第六十八代後一条天皇は平安時代の天皇です。現在、大河ドラマで紫式部の物語を放映していますが、これから誕生するのが後一条天皇天皇で、藤原道長の外孫です。

 

寛弘五年(1008年)生。


御名は敦成(あつひら)。


御父は一条天皇、御母は藤原道長の娘、彰子(しょうし)。父君は3歳の時に病で崩御され、父君の従兄弟にあたる三条天皇の御代に成長されました。


彰子の女房には紫式部、和泉式部、赤染衛門等錚々たる顔揃えとなっており華麗な王朝サロンと化していたと伝わり、敦成親王ご誕生の様子も紫式部日記に詳しくつづられています。

 

在位、長和五年(1016年)~長元九年(1036年)。


敦成親王は、一条天皇の第二皇子として誕生し、その年に親王宣下を受け、四歳にして立太子し九歳で三条天皇の譲位により即位されました。これは、藤原道長から三条天皇への譲位を促す嫌がらせと天皇の眼病の悪化が影響していました。


中宮には道長の三女の威子(いし)が立てられ、「一家に三后」を実現させた外祖父道長をはじめ、関白で左大臣の頼通(よりみち)、内大臣教通(のりみち)などの藤原氏の有力者がこれを支えました。

 

天皇の譲位の条件は、その皇子の立太子でしたので、天皇が践祚すると三条天皇の皇子、天皇より年上で二十三歳の敦明(あつあきら)親王が皇太子となりました。しかし道長は慣例となっていた皇太子への「壺切太刀」の伝授を行わず、東宮大夫の人選にも非協力的で、ついに敦明親王は辞意を伝え、後一条天皇の同母弟、つまり道長の孫の敦良(あつなが)親王が立太子することとなりました。(後の後朱雀天皇)


道長の男子は摂政、関白、大臣の要職を占め、娘らは天皇や東宮の室となり外戚の地位を不動のものとしたこの頃「この世をば、我世とぞ思ふ望月のかけたる事もなしと思へば」と自ら歌ったと言われています。2018年の11月、ちょうど道長の宴の日と満月が重なった千年目の日であったことから話題になりました。

 

 

後一条天皇の時代には、刀伊の入寇(侵略)があり、対馬、壱岐、博多などが被害に遭いました。略奪放火され、多くのものが拉致されて行きました。捕まえた捕虜はすべて高麗人であったので明らかに高麗人(朝鮮人)の侵略でした。この時は大宰権師藤原隆家が九州の豪族や武士を率いて防戦しこれを撃退しましたが、最初の現場が対馬や壱岐という離れた島でしたので、ほとんど一瞬の被害だったといいます。いつの時代も国境の島々が地政学的に危険なエリアであることに変わりはないということがよくわかります。


後一条天皇はこの時代には珍しく他の妃を持たず、内親王のみで、世継ぎとなる皇子に恵まれぬまま長元九年(1036年)崩御されました。

 

崩御は突然で譲位の儀式が間に合わなかったため、喪を秘して同母弟の敦良親王への譲位(後朱雀天皇)の儀を行い、これが御在位中の天皇が崩御した場合に喪を秘して譲位を行い上皇としての葬儀が行われる最初の例といいます。


御陵は菩提樹院陵、京都市左京区吉田神楽岡町にあります。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇総覧」

「古事記」

「日本書紀」
「古事記の邪馬台国」

 

 

 

 

古代を戦いの面で紐解く「新説『古事記』『日本書紀』で分かった大和統一」

 

古代を稲作と土木工事の面でも紐解く「よみがえる神武天皇」

 

藤原家の繁栄の時代と天皇については「大鏡」にエピソードが載っています。


開化天皇と後一条天皇は、神話やおとぎ話、また昔話がいかに現代に繋がっているかを示す天皇であり、その天皇が同じ日の祭日であるというのも、神話から繋がる我が国らしい祭日であるといえるかもしれません。桃太郎や浦島太郎、また金太郎でさえも、天皇やそこへ仕える人々に繋がっていく物語、また神話ともいわれる時代に繋がっていきます。神話は民族の精神を顕著に表現するものとされていますが、おとぎ話も同様に生活、精神、意識などの国柄や国魂を表現するものといいます。しかし、それも語り継がれてこそ。今いる私達が次の世代に伝えていかなければ、本も読んでいかなければ、次代に伝えることはできないと改めて思います。そしてそういう風に伝え続けてきたことが、いつの時代も新たな発見、あるいは未来予測にも繋がってきたのではないかと思うのです。

 

 

 

 

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