寛弘五年九月十一日(1008年)、一条天皇の皇子だった敦成親王が誕生されました。本日は旧暦の9月11日ですから、1015年前の本日のことです。敦成親王の母である中宮彰子には紫式部が仕えており、その出産の様子が「紫式部日記」に残されています。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

八月二十日過ぎから中宮の関係者はみな土御門殿(彰子の父、藤原道長の邸。彰子は出産に備えて七月十六日から退出中だった。)に宿直し、とりとめのない管絃遊びに夜を明かしていたとして「琴、笛などの演奏に未熟な若者達が、読経の声や節回しの良さを競うのや今様を競うのも面白かった」と書かれていました。出産を待つとはいえまだ緊迫していない時期に若者が楽しむ戯れのような歌としてこの時代、今様という歌がありました。身動きの大変な身重の中宮彰子を楽しませようと、同じ年代の若者達が演奏や歌を競ったのでしょう。

 

来年の大河ドラマは紫式部とその時代が描かれるということで、平安時代が今注目されていますが、この出産の時も描かれるのでしょうか。

 

今様という言葉は一条天皇の時代、「紫式部日記」や「枕草紙」に初めて登場した流行歌謡でした。当時、現代的で目新しく華やかな魅力を持っていたために「今様」と呼ばれた歌の数々で、最盛期には身分の上下を問わず誰もが今様を口ずさんだといいます。つまり当時の歌謡曲だったわけです。

 

遊女や白拍子など女性芸能者がその専門歌手として活躍し、細く澄んだ高音で歌いあげられる華麗な歌が人々の心をとらえ涙さえ流させ、酒宴の席で滑稽に歌われると満座の人々は笑い転げ、なかなか興奮も冷めやらなかったと言いますから、現代のJ-POPと変わらない光景が目に浮かぶようではありませんか。

 

御歴代の天皇について調べる中でわかってきたことは、天皇となるべく親王として生まれたがために大変な思いをされた方がたくさんいらっしゃったことです。平安中期には藤原氏の権勢が強く、強引に立太子や即位も行われることも続きました。そんな中即位された場合、即位の正統性に自信が持てないという事があったかもしれません。それが表面化したのが加後号です。後一条天皇は、父、一条天皇の正統な後継者であると強調するために、崩御後、加後号されたのだと思われますが、この加後号は後一条天皇から始まったのでした。そこには、皇后定子から生まれた第一皇子敦康親王ではなく、藤原道長の娘である彰子から生まれた敦成親王が皇位を継いだ(後一条天皇)ということの負い目があったかもしれません。

 

 

それから194年後の大治二年九月十一日(1127年10月18日)、鳥羽上皇の第四皇子として雅仁親王が誕生しました。時の天皇は同母の兄で満三歳で即位されていた八歳年上の崇徳天皇であり、治天の君は曽祖父の白河天皇です。つまり、896年前の本日は、後白河天皇の誕生日でもあります。本日は今様に縁がある天皇の誕生日が旧暦で重なっている日となります。しかも後白河天皇は縁があるどころではないのです。

 

この頃は、武士台頭の兆しが現れた頃、平安時代が終焉に向かう頃のことです。

 

そうした中、雅仁親王は第四皇子ということもあり皇統には縁のないものとして今様に打ち込んだりしながら成長していきました。

 

元服の時に加冠をして後見人になったのは当時洒落好みとして知られていた源有仁。その源有仁の家に雅仁親王はよく通っておりましたが、ここには琵琶の名手で琵琶大夫と呼ばれた源信綱、笛の名手の六条大夫こと源基綱、蹴鞠の名手の藤原頼輔など趣味人がいて、雅仁親王の文化芸能のセンスはこうしたところで磨かれたといいます。

 

そんな雅仁親王が即位することになったのは、鳥羽上皇に譲位させられた崇徳天皇の次に異母弟が即位(近衛天皇)しても、乳母だった紀伊の夫である藤原通憲(後の信西)が、当時皇位継承に連ならない皇子は出家するのが普通だったのにもかかわらず、皇位継承を画策して出家させなかったからだといいます。

 

近衛天皇は身体が弱く満16歳で崩御されました。しかしその時、次の天皇として候補に挙がったのは、新院(崇徳天皇)の皇子と雅仁親王の皇子でした。この時、本来であればまだ皇子が幼いので新院重祚ということもありえたかもしれません。しかしそれではどうしても困る人がいたのです。それが近衛天皇の母君の美福門院です。

 

新院の譲位による近衛天皇即位は美福門院の強烈な押しによってなされたといいます。そしてそのタイミングで新院と雅仁親王の母君である待賢門院が、美福門院と近衛天皇を呪詛したとされ落飾を余儀なくされる事件が起きました。しかもその時、新院が白河天皇の落胤であるということが盛んに言い立てられたといいます。これはあきらかに美福門院側によるものとしか思えません。

 

鳥羽院と待賢門院の間には、5男2女の皇子女が誕生され、第二皇子から第四皇子の雅仁親王までの四年間は年子での誕生となっており、鳥羽院と待賢門院の仲の良さを物語っています。また、白河法皇が新院の誕生を大変喜ばれたのは皇室始まって以来の玄孫だったからだとも伝わることを考えると、鳥羽院が新院を叔父子と呼んだというのもその異様なかわいがりかたにあきれたからだともいえるのではないかといえます。待賢門院が落飾後五年で薨去された時、鳥羽院はその臨終の場に駈けつけて泣き叫んだとも伝わります。待賢門院は鳥羽院の乳母の子でしたから、幼い時からの絆があった特別な間柄だったのではないでしょうか。

 

しかし、その間を裂いた美福門院側としてはまた新院が天皇に即位したり、あるいは新院の皇子が即位し、新院が治天の君になってしまうのはおおいに困ることだったでしょう。

 

新院と雅仁親王の皇子は二人とも美福門院の養子の形となっていましたから、美福門院としては、雅仁親王の皇子である孫王(守仁親王)が即位される方が良かったのです。ここに信西が接近し、存命中の父を飛び越えての皇位継承は前例がないので繋ぎとして雅仁親王の即位ということを進言したのではないかといわれています。

 

雅仁親王は、鳥羽院にも新院にも天皇の器ではないと言われていましたから、美福門院側も御しやすいと考えたのかもしれません。待賢門院薨去の後、鳥羽院は政治的な事の関心を失われたともいわれており、美福門院の意向が大きかったのです。

 

そのように御しやすいと思われていたことの理由の一つが、雅仁親王が今様に打ち込んでいたことがあげられるでしょう。

 

雅仁親王が天皇に即位された後(後白河天皇)編まれた梁塵秘抄では、十代から大変な熱意を持って今様に取り組み、どんな季節でも、どんな時間でも常に今様を歌い続け、複数ででも、一人でも歌った、声が出なくなっても歌い続け、今様の師を求め続けた、と回顧されています。これは、十代の多感な時にロック等の歌にのめり込む現代の若者と同じように見えます。朝廷の中で、重要視されず、家族内も孤独な少年が、心に訴える歌にのめり込んだのです。そして成長して後は、兄と争い、武家を向こうに回しての政務を行い、時代の移り変わりの中で朝廷を守り抜いていくなかで、今様を励みにしたのです。それも歌から元気をもらう現代人と同じで親近感がわく話ではないでしょうか?

 

実は、歴史の学び直しをするまで、後白河天皇といえば院政を行った天皇の一人ぐらいの知識ぐらいしかなかったのですが、今では、最も興味を惹かれるご歴代の天皇が何人かいる内の一人となっています。

 

雅仁親王のこうした面が、即位後に鳥羽院が崩御された直後、保元の乱が起こる一つの要因となっています。というのも、新院には自分が正統であるという自負があったからです。そうしたところに絡んできたのが摂関家内部(しかも兄弟間)での跡目争いであり、新興武士間での勢力争いでもありました。

 

この保元の乱では、新院側であった平清盛が美福門院の動きで後白河天皇側になり、夜襲で先手をかけて勝利しました。新院は讃岐に流され、八年後帰京することなく崩御されました。また武士の処罰として公には行われて来なかった処刑が行われ、天皇の配流ともども四百年ぶりの事件となっています。同母の兄弟でめんどうもよくみていた兄弟であったことがかえって怨霊の力を大きくしたのでしょう。崇徳天皇は、日本最大の怨霊として知られており、京都に禍が起きるたびに崇徳天皇の呪いといわれるようになりました。後白河院は、崇徳院の怨霊鎮魂に努めるようにもなっていきます。

 

平安時代後期に人気となった熊野詣ですが、後白河天皇は特に何度も詣でたことが知られています。また三十三間堂の創建も後白河天皇によるものです。崇徳院崩御後すぐは、その死に対して冷たかったといわれる後白河院ですが、その実こうしたのめりこみには実は潜在的にこのような背景が心理的に影響を与えていたのではないかと思えてなりません。

 

京都に後白河天皇が創建した新熊野神社

 

ご由緒にはこう書かれています。(一部抜粋)↓

当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位※されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。
 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。  
          

※退位されたとありますが譲位の誤りです。

 

国宝三十三間堂

正式名は蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。

平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が自身の職住兼備の「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ぶ院御所内に、当時権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したものでした。ところがそのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し鎌倉期・文永3年に再建されたものが現存のものとなっています。

 

 

今では皇室に伝わる文化、特に声に関するものへの後白河天皇の貢献がとても大きいということがわかっていますが、実はみんな大好きな鳥獣人物戯画も後援者に後白河天皇の名前があがっています。作者不詳で詳細な縁が不明であるといわれていますが、その巻物の質と量からも有力な皇族や貴族の力があって完成され遺されたということなのでしょう。実は今の私たち日本人の文化的な面で後白河天皇のおかげなところが多くあるということなのです。

 

後白河天皇と言えば、平清盛や源頼朝とやりあってきて武家社会の台頭の中で朝廷の力を維持した人物面ばかりがクローズアップされがちですが知れば知るほど興味深く面白い天皇です。

 

放映時、反日表現が凄く、評判の悪かった大河ドラマ「平清盛」。しかし歌の使い方はうまかった。

 

以前なにかの番組(ラジオ?)で、歴代の大河ドラマについての特集をやっており、その人気投票で1位だったのが「平清盛」で驚きました。放映当時細部の描き方に意図的な捏造や反日描写が多いとして問題視されており視聴率が低かった大河ドラマです。しかし私はそのチェックもあって見ていたのですが、とても良質なドラマに仕上がっていて面白かったので納得もしました。、実は楽しんで観ていましたから。だからこそそういうドラマの細部に反日や意図的な捏造を練り込んだNHKの罪は大きいと考えています。特に白河天皇の描き方が一番許せませんでした。

 

多分、今昔の大河ドラマを見直せば、当時はわからなかった反日描写や捏造描写をたくさん見つけられる自信があります。昔のドラマを観て気付くこと多いですから。もちろん現在ほど酷くはないでしょうけれども。今放映中の大河ドラマも、城が大々的に登場する場面で明らかにその城と扮装を大陸風にしたことが話題になっていました。私は現在大河ドラマを観ていませんが、観ていれば細部に色んな事が発見できるのではないかと考えています。来年の平安時代も、そうなってしまうのではないかとも。

 

話を戻すと、この大河ドラマで印象的な使われ方をしたのが、後白河天皇が編んだ「梁塵秘抄」の中の歌で、このドラマのOPにも使用されました。歌が使用されるのは珍しいことですが、この歌のその後の人気を考えれば納得なのです。実はこの歌は「梁塵秘抄」の中でも最も有名な歌だったのです。もしかしたら、この歌を印象的に使ったことが、この大河ドラマの人気に繋がったのかもしれません。時代を超えても、人々の耳に好まれる歌は変わらないという事を示したのではないでしょうか?つまり、言霊効果です。

 

遊びをせんとや生まれけむ

戯れせんとや生まれけん

子供の声聞けば

わが身さへこそ揺るがるれ

 

ボーカロイド用の作曲をされるノゾミマツキさんの曲で2曲。

 

梁塵秘抄からの歌はいくつもノゾミマツキさんは作られていますので、そのうちのいくつかを↓

 

 

 

今様は鎌倉時代を通して衰退していき、「梁塵秘抄」も忘れ去られていきましたが、明治末期から大正にかけて再び注目を集め斎藤茂吉・北原白秋・芥川龍之介に影響を与え、その後も菊池寛・川端康成・三島由紀夫が小説等に引用しています。そして現在も萩原規子のファンタジーなどにも影響を与えています。

 

多分一番読みやすい梁塵秘抄。角川ソフィア文庫のこのシリーズ、好きです。

 

 

タイトルからしてもじっています。

文庫版を読みましたが、こちらは当時をすごく調べて描いたという挿絵付き版。どれも美しい絵となっています。ただし、荻原規子さんの描く神や天皇はいつも冷たすぎで、それが残念で、ここでは本書を詳しく紹介したことがありません。本書に登場するのは、後白河天皇と源頼朝です。こちらではたぶんこれからも紹介しませんが、面白いことは確かで間違いありません。私はこれを読んだ後、笛を習いたくなりました。

 

こちらは文庫版 この爽やかな表紙も気に入っています

 

童謡・唱歌・歌謡曲には今も今様の形式が多いといいます。

 

実は今もある今様形式の歌の数々↓

 

以前は毎年1月1日に必ず新年用にアップされていた森高千里さんの「一月一日」。作詞の千家尊福は出雲大社第八十代の出雲国造であり、出雲大社神楽殿の東側には「一月一日」の歌碑が建っています。

 

「我は海の子」の7番まである歌を橿原神宮で全て歌う海自の歌姫三宅由佳莉さんと川上ひろしさん

 

初めて皇居に行った時、思わず口ずさんでしまった「荒城の月」。この歌詞とメロディーにとてもあった心に染み入る歌の山口淑子さんは李香蘭として波瀾万丈な人生を歩まれた方です。

 

ちなみにスコーピオンズが来日公演を行う際必ず歌う歌としてファンに有名だったそうです。

 

戦後、三番四番が省略されてしまう「蛍の光」を全部歌うSayaさん。メロディはスコットランドの民謡です。

 

実は知らないながらも伝統の中に生きているのが日本とはよく言われますが、現代の歌もそれは変わらないんですね。ただ、これが今様の形といわれても実はよくわかっていません・・・。

 

これはそのまんま「越天楽今様」を可愛く歌うボーカロイドです

 

私が後白河天皇に抱いていたイメージを変えたきっかけは今様にありました。今様にのめりこんだ新皇が、現代の若者と変わらない姿に見えたことが、興味を持つきっかけとなったのです。しかも平安時代が終わるその時に居合わせたわけですから、時代の転換期の天皇でもあり、しかも日本史上最大の怨霊といわれる崇徳天皇は同母の兄で、そのきっかけも作っているのです。こんなに興味深い天皇は他にいないと思います。この時代は、平清盛や、源頼朝、源義経で語られることが多いのですが、その誰もが重要人物として関わった人物こそ後白河天皇であり、この時代の一番のストーリーテラーだと思います。やはり日本は天皇の国なのです。

 

そして、歌の力、歌が与える影響を考えるのです。

 

今様は、「現代風」、「現代的」、という意味であり、当時の「現代歌謡曲」という意味であったことを思えば、その形式に限らず、今だってJ-POPを今様といってもおかしくはないともいえます。言葉には力があり、言霊があるといいます。だからこそ、和歌は祈りであり、祝詞でもあるとも。また音魂ともいい、言葉は違えど、その大まかな意味合いは変わらないともいいます。現代は、歌は電波に乗り瞬時に色んな人の耳に入っていきます。言葉が違う国でさえも、我が国の言葉でその歌が人気となる時代です。そうした歌の力を改めて考えたほうがいいのではないかとさえ最近は考えています。

 

動画を見ていると勝手に上がってくる歌などがあるのですが、たまに言葉の力が強く、歌唱力もあって話題の歌であったりして、最初は良い歌かもしれないと思って聴いていてもどうしても好きになれない、なにか違和感を感じて聴くのを止めてしまうものがたまにあります。歌もうまいし歌詞もいいのですが、なにかうすら寒さを感じさせる人がいるのです。私には霊感も何もありませんが、日本人として生きてきた自分の人生の勘を信じて、そうした歌手の歌は聞かないようにしています。

 

それはまるで、ここ10年近く本屋の漫画本コーナーで感じるうすら寒さと似ているかもしれません。本には作者の念がこもっています。そして、漫画本コーナーは、今本当に気持ちの悪い場所になっています。気持ちの悪い絵が多いし、多分中身も気持ちの悪いものが多いのだと思います。

 

そしてうすら寒い歌、歌詞も曲もいいのになにかおかしく感じる歌にはなにか裏の怨念がこもっているのではないか、と考えています。

 

今様に熱中した後白河天皇の時代が、大きな時代の変換期であったように、今、時代は大きく変わろうとしていると肌で感じられるような時代のただなかで、人々の心を捉える歌、現代の今様に注目せざるを得ない、と考えるのです。

 

 

最近では、現在の日本の楽曲はもちろん日本の過去の音楽が改めて海外で注目を浴びてる話題も翻訳ブログによく登場します。また、動画配信では日本の歌に夢中な外国人の動画がよくアップされています。歌の力は本当に大きい、と感じます。アニメの主題歌が注目されたりしていますが、ネットにより様々なアクセスが簡単な現在は、世界中にアクセス簡単な中で、様々な日本の楽曲に注目が集まるのはその言霊の力もあるのではないか、と思うのです。また、漫画については改めて言うまでもありませんが、アニメから始まって今では世界中で漫画本が読まれる時代となりました。

 

J-POPや漫画の原型が、平安時代に始まったことを知るのは面白いです。当時とは全く違う、こじつけ、と思うかもしれません。現代的な楽曲の始まりも、戦前と今では大きく違うのですから、平安時代からと比較すれば大きく変わるののも当たり前です。現在あるものの始まりは、そんな風に始まり変化や進化を遂げたものが多いことは、伝統技術が最新技術に結びついてあることをみても違和感はありません。そうして奥深さや面白さを知ると、日本の文化に誇りを持てるのではないか、と思う今日はそんな一日です。

 

翻訳ブログで話題になった日本の楽曲や漫画↓

今年一番の話題「アイドル」

「アイドル」は動画公開時から話題になっていました

 

今や世界のスタンダード「上を向いて歩こう(スキヤキ)」

 

 

実写版ワンピースが、加入者数の減少に悩まされていたネットフリックスを救ったという話題。ワンピースはいうまでもなく漫画が原作で全世界で発売されています。

 

 

 

 

 

 

 

私が最近よく視聴しているFujiさんのチャンネルで4年前大英博物館で行われた漫画展のレポートがありましたが、大盛況でした

最近は日本に住んでいる外国人とのトーキング形式が多いのですが、その中でJ-POPについての話題の回をいくつか

 

 

 

 

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