第五十四代仁明(にんみょう)天皇は、平安時代初期の天皇です。


弘仁元年(810年)生。


御名は正良(まさら)。


御父、嵯峨天皇の第二皇子、御母は壇林皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)。またこの時同時に正子(まさこ)内親王が生まれていますので双子の親王と内親王でした。


在位、天長十年(833年)から嘉祥三年(850年)。


第五十三代淳和(じゅんな)天皇には多くの皇子がいましたが、皇太子には第五十二代嵯峨天皇である兄の皇子、正良親王を立てました。そして正良親王は、天皇から皇位を譲られて即位すると淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てました。淳和天皇の皇后は正子内親王で淳和天皇の譲位により皇太后になられており、その皇子でもある恒貞親王ですから、仁明天皇の叔父の子でもあり、姉の子でもあったわけです。


これは嵯峨上皇が皇子がいるのに弟である淳和天皇に皇位を譲られたことに倣い、淳和天皇も謙譲の精神からやはり皇子がいるのにも関わらず嵯峨上皇の皇子である仁明天皇に譲位されたことを、仁明天皇も倣ってのことでした。この嵯峨天皇から続く兄弟叔姪の間で謙譲の心を持って皇位が伝えられたこの三代の時代は嵯峨上皇を中心に政治も安定して「崇文(すうぶん)の治(ち)」と呼ばれました。一方で、ここには嵯峨上皇の意向も大きく影響しており、仁明天皇に皇子、道康親王がいるだけに禍根となっていくのは、誰の目にも明らかでした。しかも道康親王の母は、急速に台頭した藤原良房の妹であり、親王は良房の甥でもありましたから、良房も仁明天皇の皇子が皇位に就くことを望んでいたのです。


そうした動きを察知した淳和上皇と恒貞親王は何度も、皇太子の辞退を奏請されたと伝わりますが、その都度嵯峨上皇が慰留されていたのでした。


八四十年に淳和上皇が、八四二年に嵯峨上皇が相次いで崩御されました。嵯峨上皇は国忌をせず、葬儀もつつましくするよう遺詔されたといいます。


そしてこの直後承和の変、皇太子を奉じての謀反が起き、恒貞親王は皇太子を廃されましたが、これは藤原良房が他氏を排斥し勢力拡大するための陰謀だったと伝わります。

 


その後皇太子になったのは、良房の妹の女御、順子の子である仁明天皇の皇子道康(みちやす)親王でした。次の文徳(もんとく)天皇です。こうして藤原家の権勢が広がっていったのです。

 

嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇へと続く世が平穏だったのは、皇族内部に上皇、天皇、皇太子の間で関係を良好に保とうとする皇位継承をめぐる深い配慮があったからでした。これは嵯峨天皇の父桓武天皇の即位から嵯峨天皇の即位頃までの様々な事件(怨霊の仕業といわれた事件)からの教訓から嵯峨上皇が知恵を絞ったことだったのかもしれません。ところが、その教訓も嵯峨上皇の崩御と共に臣下の陰謀で消え去ってしまったのです。いかに教訓を生かそうとしても、政治と絡まった派閥の前には簡単に消えてしまうという事を歴史は教えてくれます。


この時二つの派閥が生まれており、嵯峨上皇と淳和上皇の崩御後にそれが顕在化したのが承和の変だったのです。仁明天皇のとりなしもむなしく、良房の専断により事件は処理され勢力図も変わっていったのです。

 

仁明天皇は、身体が弱かったためか医薬への関心が高く、その学識は医者と問答し黙らせるほどだったといいます。しかし、現代では危険と知られている鉱物質の薬を自ら調合していたことがその命を縮めたのかもしれません。


嘉祥三年(850年)年二月、天皇は病により出家され数日後崩御されました。


仁明天皇は和風諡号を奉贈された最後の天皇です。和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。


御陵は深草陵、京都市伏見区深草東伊達町にあります。


橘氏の氏神社、酒造守護で知られる梅宮大社(うめのみやたいしゃ)には嵯峨天皇、壇林皇后と一緒に親子で祀られています。

※梅宮大社では崩御日を西暦5月9日と記しており、祭日は新暦で行われていますが、このブログの祭日は現在行われている祭祀が記された『宮中祭祀』を参考にしております。

 

なお現在和菓子の日とされている六月十六日は、承和十五年(嘉祥元年)の夏、仁明天皇が御神託に基づいて、六月十六日に十六の数にちなんだ菓子、餅などを神前に供えて、疫病を徐け健康招福を祈誓し、嘉祥(めでいしるし)と改元した古例に因んだもので嘉祥の日とも言われています。嘉祥の日には朝廷でお上に菓子を献じることが吉例となり、後には民間の習慣にもなりました。


また仁明天皇が愛された色が承和(そが)色として今に伝わっています。仁明天皇は菊の花を愛で、宮中にたくさんの菊を植え、お召し物も黄色にされたといいます。その仁明天皇の愛された菊の色あいを出したのが承和色だといいます。当時は黄色が流行したといいますから、さぞ明るい宮中だったのではないでしょうか。

 

なお、美人で知られ三十六歌仙にもあげられる小野小町は仁明天皇に仕えていたとする説があります。

 


第百十四代中御門(なかみかど)天皇は、江戸時代の天皇です。

 

元禄十四年(1702年)生。


御名は慶仁(やすひと)、長宮(ますのみや)。


御父は東山天皇、御母は櫛笥賀子(くしげよしこ)。


在位、宝永六年(1709年)から享保二十年(1735年)。

 

東山天皇の第五皇子として誕生し宝永四年(1707年)に親王宣下を受け翌年立太子し、その翌年父の譲位を受けて践祚、さらにその翌年即位されました。御即位が九歳(満年齢七歳)だったため、はじめは東山上皇、そして後には祖父の霊元上皇が院政を行いました。

 

また即位の三年後に元服をされましたが、即位後の元服は近来稀なことだったといいます。


御即位の年は徳川五代将軍綱吉が没し家宣が六代将軍になった年でもあり、以降七代将軍家継、八代将軍吉宗までが、中御門天皇の治世でした。


享保十四年(1729年)には、将軍吉宗自ら注文してベトナム広南産の象の拝謁を霊元上皇と共に受けられました。この際、象が無官であるため参内の資格がないという問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させています。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象をみた天皇はその感銘を御製にしたためました。

 

時しあれは
人の国なるけたものも
けふ九重に
みるがうれしさ

 

 

寺子屋で子供たちはこんなことを習っていましたが、これは「改算記」に載っていた魏の国の皇帝が象をプレゼントされた話で重さを測りたいとした物語です。「改算記」は、明暦二年(一六五六)刊のベストセラーで寺子屋でもよく使われていたものだそうです。これを習って象に対して想像を大きくしていた人たちは、きっとこの象の来日に興奮したのではないでしょうか。

 

徳川家との関係も良好な時で、閑院宮家の創立などもすんなりできました。同母の弟、直仁親王を祖とする宮家の創設で、これは既にある宮家(伏見宮、有栖川宮、桂宮)が天皇と遠縁になってきており、皇統の断絶を危惧して新井白石の建議により実現したもので、霊元上皇より閑院宮の家号と所領千石が下賜されたものです。後年その閑院宮家から即位されたのが光格天皇です。

 

つまり天皇陛下は、中御門天皇の同母弟の系統の御子孫にあたります。こうした歴史を知ると皇統断絶の危機に当たって為政者が進言することは宮家の補強であることであることがわかります。明治期以降には、明治天皇、昭和天皇の内親王との婚姻により宮家の補強が行われましたが、いずれの方法でもその補強とは血統の補強です。そしてそれを壊そうとしたのがGHQの影響下での旧宮家の皇籍離脱でありました。現在、それを正すことが急務であると思いますが、それはどんな形であれ、血統での補強であって、女性宮家を創るというような頓珍漢なことでないことは言うまでもありません。

 


中御門天皇は、有職故実の研究と再興に関心を持ち様々な節会を復活させました。また、管弦、和歌、書道などに通じ、特に笛は天下一品で狐が間近まで来て聞いたといいます。

 

中御門天皇は幼いうちに即位後、父君が崩御されたため、御祖父であられる霊元上皇の教えを頼りにされていたようで霊元上皇へ贈られた御製が多くあるようです。その頼りにされていたことがわかる御製です。

 

なにごとも

君にまかせて

頼むぞよ

言葉の道の

しるべのみかは

(全てのことを霊元上皇様にお任せして頼っていますよ、和歌の道の導きだけではなくて)


享保二十年(1735年)、皇子で皇太子の昭仁(てるひと)親王に譲位(桜町天皇)、上皇となった二年後の元文二年(1737年)インフルエンザにて崩御されました。


御陵は月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。

 

 

 

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参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇総覧」
「天皇・親王の歌」

 

天皇を理解しやすい本の数々

 

 

 

 

 

 

 

 

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