平安時代に入って三代目の嵯峨天皇が上皇の頃のお話です。

嵯峨天皇の次に皇位を継がれたのは、嵯峨天皇と同じ年に生まれた異母弟の淳和天皇でしたが、その直前に嵯峨天皇の皇子である正良親王が立太子されていました。この頃は年少者が即位されることはなかった時代ですから、中継ぎに淳和天皇を即位させたのでしょう。

淳和天皇は即位10年後譲位され、24歳の正良親王が即位されました(仁明天皇)。この時、本来であれば仁明天皇の皇子を立太子するところでしたが、嵯峨上皇が、淳和上皇、仁明天皇の反対を押し切り、淳和上皇の皇子である9歳の恒貞親王を立太子させました。恒貞親王は嵯峨上皇の異母弟の子であると同時に、その母は嵯峨上皇の皇女、正子内親王でしたから外孫でもありました。よく娘の子供は可愛いと言いますが、嵯峨上皇も恒貞親王を可愛いがられていたのだと思います。

その五年後、紫宸殿にて恒貞親王元服の際には、紫宸殿を降りて拝舞する様子が華やかで麗しかったと伝わります。

しかし仁明天皇からは従兄弟でもあり甥でもある皇太子の存在は、仁明天皇に皇子、道康親王がいるだけに禍根となっていくのは、誰の目にも明らかでした。しかも道康親王の母は、急速に台頭した藤原良房の妹であり、親王は良房の甥でもありましたから、良房も仁明天皇の皇子が皇位に就くことを望んでいたのです。

そうした動きを察知した淳和上皇と恒貞親王は何度も、皇太子の辞退を奏請されたと伝わりますが、その都度嵯峨上皇が慰留されていたのでした。

承和七年五月、淳和上皇が崩御されました。そして七月には嵯峨上皇も崩御され、恒貞親王は有力な後ろ盾を失いました。そのため恒貞親王にお仕えしていた伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)は恒貞親王の身に危険が迫っていると感じ、東国へ移ってもらおうとしました。しかし、これが乱を起こそうとしていると疑われ承和の変となりました。伴健岑と橘逸勢は私邸を包囲され捕縛、皇太子は直ちに辞表を天皇に奉りましたが皇太子に罪はないとして慰留されました。しかし、その後皇太子も関与が疑われ、皇太子の居所が包囲され、出仕していた大納言藤原愛発(ちかなり)、中納言藤原吉野、参議文室(ぶんや)秋津らが捕縛されたのです。

仁明天皇は詔を発して伴健岑と橘逸勢らを謀反人と断じ、恒貞親王は無関係としながらも責任を取らせるため皇太子を廃されました。藤原愛発は京外追放、藤原吉野・文室秋津はそれぞれ左遷、伴健岑と橘逸勢は流罪となりました。

伴健岑と橘逸勢は杖で何度も打たれても、両者ともに罪を認めなかったといいます。橘逸勢はこの時60歳を過ぎていました。そのためか流罪地の伊豆への護送途中で病没しています。死後、橘逸勢は罪を許され、嘉祥三年(850年)太皇太后・橘嘉智子の崩御後まもなく正五位下の位階を贈られ、さらに仁寿三年(853年)には従四位下が贈位されています。そして、貞観五年に行われた御霊会においては、文屋宮田麻呂、早良親王、伊予親王と共に祀られ、現在も上御霊神社と下御霊神社に祀られています。この当時、無実の罪で亡くなると怨霊になると恐れられていました。つまり、そのような陰謀はなかったのです。

この後、藤原良房は大納言に昇進、その後も昇進を重ね人臣最初の摂政・太政大臣となり藤原北家繁栄の礎を築きました。そしてこれが藤原氏による最初の「他家他氏排斥事件」ともいわれるようになります。この事件で良房は、自分の甥を天皇に即位させることが出来たうえ、ライバルである他家他氏を排斥したのです。

七年後、恒貞親王は出家されました。平城天皇の第三皇子でやはり皇太子を廃された高岳親王・真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺の祖となられたのです。この時、24歳。仏道に深く帰依し常に精進したといいますが、俗世を離れやっと心落ち着ける場所が得られたのではないでしょうか。賢ければ賢いほど、古からの皇子の受難を自分に置き換えていたことと思います。特に祖父の桓武天皇の時代、早良親王の話などは祖父の弟ですから、生々しく伝わっていたのではないでしょうか。本人にその気がなくても巻き込まれ易いお立場から離れられた安らぎがあったのではないかと思います。

 


後に仁明天皇の曾孫である陽成天皇退位後の後継問題が起きた時に、還俗して即位されることを要請されますが、拒絶されています。

その年、元慶八年九月二十日(884年10月12日)恒貞親王は薨去されました。本日は旧暦では9月20日に当たりますから、1139年前の本日は恒貞親王の旧暦での命日となります。

※単純に旧暦に当てはめています。

死期を悟った恒寂入道親王(恒貞親王)は、衣服を浄め、仏前に香華を唱えて西方に向かって結跏趺坐の姿勢を取って入寂したと伝えられていますから、最後の時まで麗しかったのではないでしょうか。

 

後に、「日本外史」を著した頼山陽は、恒貞親王が度々皇太子を辞退されたにも関わらずこれを受け付けず、事件にかこつけて廃したうえで、道康親王を皇太子に立てたことを厳しく非難しています。

 

天皇の歴史を紐解くと、皇子に生まれたがために事件に巻き込まれた方が沢山いらっしゃったことに気づかされます。恒貞親王は、察知されていてもその運命から逃れられませんでした。しかし、こうした歴史が語り伝えられることで、新たな悲劇を避けたり、うまく対応する参考になるのではないでしょうか。また、長い天皇の歴史には、多種多様な人間関係がありましたから、普通の人でも身近な参考になることもあるかもしれません。なんといっても、人間の本質は昔も今も変わらないといいます。そうしたことを示してくれるのも歴史なのです。

 

そうでなければ歴史を伝え続けることに何の意味があるでしょう?歴史はただのお話ではないのです。

 

一番の悲劇として伝わるのは有馬皇子で、若い命が散らされました。

 

同じく命が散らされた皇子 お彼岸は早良親王の怨霊を鎮めるために始まりました。

 

悲劇の皇子の系譜はヤマトタケルノミコトから始まるのかもしれません。古事記には悲劇の皇子として描かれています。

 

この他にも、悲劇の皇子、また天皇もいらっしゃいます。陽成天皇も、もしかしたら逃れようのない悲劇の渦中にあって退位となったのかもしれません。こうした宿命にからめられてしまう立場に陥りやすい位置にいたのが、皇子、また年若く後ろ盾のない天皇でありました。

 

また女性であるがために悲劇に見舞われた聖武天皇の三人の皇女もいます。一人は重祚して二回天皇に即位し、一人は皇后となりその皇子が皇太子になりながら親子でその地位をはく奪され、もう一人はその最期が歴史に残らないような行方不明者となっています。それは女性であったが故の悲劇ともいえ、その後江戸時代まで女性の天皇は誕生しないほどの影響を与えました。そうした歴史を知る人は、それでなくても女性にとってはより厳しくなる潔斎がつきものの天皇に、女性皇族がならなくてすむような仕組みを作ったのです。女性が天皇になるのは、最後の最後の最後の手段だということでしょう。

 

参照:歴代天皇で読む日本の正史 他

 

本日の明治節に合わせてアップされた唱歌。いつもこうした歌を再現してくださる山口采希さんには感謝しかありません。

 

 

 

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