第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。昨日は安徳天皇の祭日でしたが、安徳天皇は後白河天皇の皇孫となります。

 

大治二年(1127年)生。

 

御名は雅仁(まさひと)。

 

御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。

 

御在位、久寿二年(1155年)から保元三年(1158年)。

 

雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。第一皇子の同母兄の崇徳天皇が譲位したのは、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた異母弟の近衛天皇でしたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。

 

ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の若さで皇子女なく崩御されました。

 

心ならずも譲位させられていた崇徳上皇は、再度皇位につくか、我が子の即位を望まれましたが、そうはさせたくない美福門院派は、養子となっている英邁の誉れ高い雅仁親王の皇子の守仁親王を推します。そしてまだ守仁親王が年少なためと、実父を飛び越えての即位はよくないということで、中継として雅仁親王が即位することとなりました。

 

即位の翌年、鳥羽法皇の崩御直後に、後白河天皇の即位に不満を抱く崇徳上皇と左大臣藤原頼長が保元の変を起こしました。これは、天皇の身内、藤原家の身内、武家の身内が、それぞれ争う乱でしたが、平清盛や源義朝ら勢いを増す武士勢力を擁す後白河天皇方が奇襲をし、崇徳上皇方は敗れ上皇は讃岐へ流されました。このことが、日本史上最大の怨霊を生むこととなりました。崇徳上皇は崩御後、怨霊となられたとして慰霊が繰り返されることになるのです。

 

 

後白河天皇は即位四年で守仁親王に譲位(二条天皇)し院政を開始しました。その後、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の五代に渡る院政の始まりです。

 

しかし、暗愚の後白河上皇に治天の君の資格はないとする二条天皇とその側近や藤原家内や武士間の勢力争いが絶えずあり、それが噴出したのが平治の変です。二条天皇は美福門院の養子となっていたためか、実の父に対してこのように考えるようにされていたのです。保元の変、平治の変ともに美福門院のために起きたといわれたことから、後に妖狐が化けた話、玉藻前のモデルにもされました。美福門院かその側近かあるいは両方か、朝廷とは実の親子、兄弟でさえも反目させてしまう人達が暗躍する場所であることがわかりやすい例となっています。いつの時代も内紛こそは付け入る隙となります。だからこそ、これは今も、皇室内を反目させよう、あるいは反目し合っているように見せようとあることないことを書き立てるメディアやSMSは、何も言わない皇室の方々に付け込んで国民を煽っているわけです。

 

 

この変の鎮圧で勢力を増した平清盛は上皇の権威を利用し、またその清盛の力を利用して権勢を振るう上皇という関係がその後出来上がっていきました。

 

清盛の妻の妹である滋子との間に生まれた憲仁(のりひと)親王を皇位につけ(高倉天皇)、皇后には清盛の娘の徳子が入内し関係を強化したのです。しかし、互いの勢力が拮抗するにつれ軋轢も生じ、安元三年(1177年)には鹿ヶ谷の陰謀が起こり平家打倒の密議がもれ、両者の関係は悪化していきます。そしてとうとう清盛により後白河法皇は幽閉されました。

 

清盛は高倉天皇と娘徳子との間に生まれた言仁(ことひと)親王を即位させ(安徳天皇)、高倉上皇には形だけの親政をさせました。

 

ところが、この年には高倉上皇との皇位争いに敗れた似仁王が平家打倒の軍をあげ失敗するも、今度は源頼朝らが挙兵し後白河法皇はこれを支援しました。

 

治承五年(1181年)に高倉上皇の崩御に続き平清盛が没すると、平家の勢力は急激に衰えました。都落ちを察した後白河法王は比叡山に逃れましたが平氏一門は安徳天皇や三種の神器を道連れにしていきました。そこで後白河法皇は「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下しました。そして高倉帝の皇子、四宮の尊成親王を践祚させました(後鳥羽天皇)。つまり平家が檀ノ浦で安徳天皇を道連れに滅びるまで、天皇が同時期に二人存在したのです。その時安徳天皇は亡き平清盛の妻であった二位尼と入水しており三種の神器も共に海に沈みました。鏡は伊勢に、剣は熱田にありますが、形代とはいえ本物同然に扱ってきたからこその形代です。そして璽こと勾玉はいつも天皇の側にある唯一無二のものです。鏡と璽は木製の箱に密封されていたため浮かんできたといいますが、布にくるまれた剣はとうとう見つかりませんでした。

 

 

平家追討は「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として宣旨されていますから、源頼朝は指揮官の源義経に安徳天皇と三種の神器の保護を厳命しました。つまり、後白河法皇と源頼朝両方の願いを受けて源義経は動いているわけです。実は後白河院は、義経が平氏を追って四国に出撃することを奏上した時、京都守護が手薄になるので反対しており、それを最終的に認めた後もやはり京都が不用心になると義経の発向を制止させる行動に出ていました。それを振り切って義経は出陣し、壇ノ浦まで行っています。後白河法皇は、下々のものとも接してきた今までにいない天皇であり、また多くの政変をくぐり抜けてきた法皇として、人を観察する目があったのではないかと思うのですが、その法皇が何度も引き留めたのは、義経の理解力のなさが安徳天皇の命と皇室の宝を護りきれないと危惧したからではないか、と、そこまでお考えになったのではないかと思えます。

 

ところが義経はその過去にない戦いぶりから平氏を追い詰め、二位尼他多数の子女の入水を招き三種の神器もろとも沈ませてしまうのです。その愚かさには後白河法皇も怒りを感じたと思います。


しかし、後白河法皇は義経から平氏討滅の報告が届くと、関東に使者を送り頼朝の功績を称賛しています。ただし、安徳天皇の崩御と神器喪失に一番怒っていたのは法皇と頼朝だったのだと思います。ところが戻ってきた義経には位を授けています。これが頼朝、義経兄弟の不和となる一因ともいわれていますが、位を授けたのは長い騒乱が続いてきた中での後白河法王の知恵だったのかと思います。また、この位を受けた義経への頼朝の怒りは、本来の目的を達成できなかったのに辞退もせず位を受けた義経への怒りだと思うのです。幼帝を死に追いやり神鏡剣璽を海に沈ませ剣に至っては発見もできなかった。それなのに位を受ける、その無神経さに頼朝は怒ったと思うのです。このことに関しては、頼朝は後白河法王と全く同じ心だったと。あるいは義経の無神経さは、もしかしたら義経が幼少の頃より平清盛の元での戦後教育を受けたことにより何かが欠けていたということなのかもしれません。


源義経は平氏討伐の功績により正四位下から従二位に叙されましたが、その後頼朝との間に確執が生まれ、後白河法王は源義経に頼朝討伐の院宣を下しましたが義経が敗れ、頼朝に抗議されると義経の追討の院宣を下したことから、頼朝には「日本国第一の大天狗」といわしめられました。

 

幼い頃から暗愚と言われながら育ち、自分の皇子にまでもそう言われた後白河法皇ですが、貴族社会の騒乱に始まり武士の世に変遷していく動乱が続く中、上手く立ち回り権力の座は移っても朝廷の形はそのまま残していくようにしていったのですから、実は能力が相当あったのだと思います。そしてそれが一番わかっていたのはやはり伊豆に流され苦渋を味わってきた源頼朝だったのかもしれません。

 

貴族社会から武士の世までの変換期の中、駆け引きを繰返しながら朝廷の威信を守り抜き公武関係を安定させていった後白河法皇は、宮廷とは縁の薄い民衆の芸能を好み、今様(当時流行した七五調の歌謡)を集めて『梁塵秘抄』を編纂したことで知られていることから、下層民衆にまで通じていたのだろうと言われています。多分貴族・武士入り乱れての内紛が続く朝廷からの息抜きが、庶民の芸能だったのでしょう。

 

 

 

後白河天皇というと今様狂いというようなイメージが作られていますが、実は今様ばかりでなく催馬楽や朗詠、声明(しょうみょう)なども習得しており、音声への強い関心のその中心には声技がありました。自ら経典も読み(読経)その御世には能読(読経の達人)が多く輩出されたことが記録されています。

 

当時の世の中に浸透しつつあった音楽成仏思想に基づき、今様や声明など音声を通して神仏による加護を期待することによる王権の強化を図り、私的な雑芸から公的な芸能へ転化させていったのが後白河天皇であるといえます。そして後白河天皇以降は宮廷音楽の一つとして認知されていきました。また、こうしたことは仁和寺の御室となった後白河天皇の皇子の守覚法親王に引き継がれ舞楽や伽陀といった様々な音楽要素を取り込んだ法会の展開に繋がっていくなどの影響を残されています。

 

般若心経と音楽を重ね反響を呼んでいる薬師寺寛邦キッサコさんなどはもしかしたら、こうした系譜に続いているのかもしれません。「般若心経 cho ver.」は日本のみならず台湾、中国での反響もすごいと聞いています。それはその声や発声法に魅力があるからだと私は考えています。


歌のうまい歌手に心酔する人は世界中におり、宗教的な感じまで漂うファン心理があることを思えば、その声の魅力というものに注目された後白河天皇の着眼点は鋭かったといえると思いますし、だからこそただの一天皇の趣味に終わらずその後の宮廷や寺の行事として定着していったのだと。


以下はボーカロイドが歌う今様ですが、当時の歌謡曲にのめり込まれた後白河天皇なら気に入っていただけるのではないかと思う私のお気に入りで、今様がわかりやすい動画です。

 

【初音ミク】遊びをせんとや生れけむ【梁塵秘抄】、「舞へ舞へかたつむり」とあわせて。「遊びをせんとや~」は、大河ドラマ「平清盛」でのオープニングに珍しく歌で採用され、劇中でも何度も印象的に歌われました。太宰治などはよく口ずさんでいたそうで、とても深い歌詞の歌だと思います。


【結月ゆかり】我をたのめて来ぬ男【梁塵秘抄】

【VOCALOID3×11人】熊野を歌う今様【梁塵秘抄】御歴代天皇中最多の熊野詣でをされたのが後白河天皇です。


建久三年(1192年)崩御。上皇になられた後の院政は、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と五代に渡っており、その間、保元の変・平治の乱、治承の乱、承永の乱と戦乱が続き、二条天皇、平清盛、木曽義仲と相次いで対立し、幽閉されたり、院政の停止にもあいながら復権を果たして来られた激動の時代は、鎌倉幕府の始まるころ、終焉を迎えたのです。源頼朝の上洛の二年後のことでした。この年の夏に頼朝は征夷大将軍に任命され鎌倉時代の幕開けとなるのです。平安時代の終焉はまさに後白河法皇の崩御と重なります。


御陵は法住寺陵、京都市東山区三十三間堂廻り町にあります。地名にある通り有名な三十三間堂は法住寺内にあり、後白河法皇の命により平清盛が造営されたものです。

 

 

 

法住寺では、本日10j時半から後白河法王忌が行われます。

 

例年1日~7日まで後白河法王御尊像特別御開扉が行われますので詳細はHPをご覧ください。法住寺には運慶作と伝わる後白河法皇像があり、幕末までは毎年祭日に御開帳がありましたが、維新以後御開帳はされていません。そこで平成三年の八百回忌に新しい坐像を宮内庁の了解を得て御像顕となっています。

 

Nadia (Vocalist) - " Beatiful 般若心経 "- 法住寺・後白河法皇忌ー奉納ライブ 2015年

2015年5月3日・法住寺(京都・三十三間堂東隣)Nadia(ナディア) ; 島根県出身。シンガーソングライター活動、作家としてアーティストや地元企業 CMへの楽曲提供に加え、『神々つどうご縁の国』に生まれたことを強く意識し、201­3 年より「いにしえの言葉」に曲を付け、積極的に発表、伝統音楽を伝えるアーティストと­してステージを開始する。 彼女の歌声から暖かさ、時には凛とした日本のバイブレーションが響きわたります。

 

江藤ゆう子 : 「遊びをせんとや生まれけむ」_法住寺・後白河法皇忌ー奉納シングライブ(5)

2013年5月3日・法住寺(京都・三十三間堂東隣)「遊びをせんとや生まれけむ」=平安時代『梁塵秘抄』の今様歌謡法住寺・赤松圭祐住職の今様とのコラボ。

 

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇総覧」

 

後白河天皇については、天皇について探究しだした頃の名前だけの知識しかない頃と、多少は知るようになった現在で印象が大きく変わった天皇であり、私が一番関心を持っている4人の天皇のうちのお一方となっています。天皇は知れば知るほど奥深いとあらためて考えさせられる天皇です。

 

キッサコさんの般若心経、これまでの概念を覆しながら、基本も残されているところが僧侶たる所以。後白河天皇が聞いたら絶対に気に入ったと思う般若心経。

 

「時代」も、静かに歌われるとずいぶん雰囲気が変わります

 

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半は後白河法皇の時代です。私は見ていませんが、そこで描かれている後白河法皇はどちらかといえば教科書などに出てくる院政を行った後白河法皇像に近かったんだろうと思います。ただ本当の後白河法皇は、誰にも重要視されていないその幼少期から見ていくととても分かりやすく、人間臭い人物像が浮かんでくる天皇、法皇です。この時代幼い頃に天皇に即位され20歳前後で譲位されたり若く崩御される天皇が続く中、異色の天皇となられたのはやはり成人してからの即位が大きいと思うからです。歴代の天皇の中で異色の天皇は成人してから即位された天皇が多いようにみえます。また、生涯にわたって今様に魅せられた後白河法皇は、その歌によって勇気づけられ支えられていたのではないかと思うのですが、強く興味を惹かれるものが生涯あることの強みをそこに感じることができるのも、興味深いと思える所以です。

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎