本日は安徳天皇の祭日です。

 

第八十一代安徳天皇は平安時代末期の天皇です。

 

御名は言仁(ときひと)。

 

治承二年(1178年)生。


御父は高倉天皇、御母は平清盛の娘徳子(高倉平中宮)。後白河天皇の皇孫です。


御在位、治承四年(1180年)から寿永四年(1185年)。


高倉天皇の第一皇子として誕生された言仁親王は、生後間もなく親王宣下を受け立太子されました。そして満一歳二ヵ月で高倉天皇の譲位を受けて即位されます。外祖父の地位を確保し、平氏一門の政治的基盤を確固たるものにするという平清盛の願いが叶った時です。この時期には、高倉天皇の父である後白河法皇は清盛により幽閉されており、全て清盛の指示により行われたといいます。


しかしあまりにも天皇が幼いため実際の政治をみるための摂政が必要で、藤原基通が任じられました。


この頃、後白河法皇の第二皇子の似仁親王が平家討伐の令旨を発し、これに各地の源氏が呼応したため、清盛は鎮圧しています。


そして同年、福原へ行幸し高倉天皇、後白河法皇を奉じて遷都を行いました。


しかし、八月には源頼朝が挙兵し、十月に富士川の戦いで平家軍が大敗したことから、清盛は京への帰還を余儀なくされ、後白河法皇は院政を再開しました。


その翌年正月、高倉上皇が崩御され、二月には清盛が熱病で没しました。平家はその後どんどん弱体化し、二年後には源義仲に越中で敗れました。


清盛のあとを継いだ宗盛は、義仲が京に迫ったので天皇と法皇を擁して西国へ走ろうとしました。天皇と法皇に刃向かえば朝敵になるからです。しかし、後白河法皇はいち早く延暦寺に脱出したため、安徳天皇を連れ三種の神器とともに都落ちをしました。


後白河法皇は、源義仲に「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡・剣璽を連れ去った」として平氏追討宣旨を下されました。

 

また天皇不在の京都では、後白河法皇の詔により尊成(たかひら)親王が即位したため(後鳥羽天皇)、安徳天皇崩御までの間は二人の天皇がいたことになります。二人の天皇が同時に存在したこと、三種の神器なしでの天皇への即位ともに正史上初めての一大事件でした。


安徳天皇は平家一門とともに太宰府(福岡県)に入ったのち、讃岐の屋島に行宮を営みましたが、寿永四年(1185年)二月源義経の襲来により海上に逃れました。そして檀ノ浦の戦いで平家は滅亡し、八歳(数え年)の天皇は祖母である二位尼(平清盛の妻、時子)に抱かれて入水しました。安徳天皇は東を向いて伊勢神宮を遥拝し、西を向いて念仏を唱えたといいますから聡明な幼帝だったのだと思います。


この時三種の神器も一緒に沈みました。


翌日漁師の網に安徳天皇の御遺体がかかりました。その御遺体が一時的に安置された場所は御旅所と呼ばれています。


御歴代天皇中最年少、満六歳での崩御です。その悲劇性から日本全国に安徳天皇が落ち延びたという伝説があります。その諡号には、御霊を御慰めする字である漢風諡号の「安徳」が最初から贈られています。

 

 

また三種の神器については、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収できましたが宝剣(天叢雲剣)はとうとう見つかりませんでした。元々鏡と剣はそれぞれ神宮(伊勢)の内宮と熱田神宮に収められており天皇のおそばにあるのは形代と言われていますが、しかし本物同然に扱ってきたものです。三種の神器なしに即位した安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇は終生、これをコンプレックスにしていたと伝わり、2度剣を捜させているといいます。

 

後に、神宮(伊勢)から献上された剣が新しい形代となりました。

 


壇ノ浦の戦いについては、源平の戦いぶりや平家滅亡と安徳天皇の入水及び三種の神器が沈んだことが普通に語られますが、これは国史上最大の事件の一つでした。天皇と三種の神器が同時に海に沈んだのですから皇室史上最大の事件です。


この戦いを率いた源義経は兄頼朝から、安徳天皇と三種の神器の保護を厳命されています。しかしその厳命を守れなかったばかりか、見つからなかった剣については、宇佐八幡宮に祈っただけで真剣に探していないとされています。源頼朝の母は、熱田神宮の宮司の娘です。熱田神宮で祀られているのが日本武尊が置いて行った剣、つまり「三種の神器の剣」ですから、その重要さが頼朝にはわかっていたのです。ところがそのことが最後まで理解できなかったのが源義経でしょう。三種の神器の大切さも幼い天皇の命を御守することの重要性も認識できなかった義経は、兄の母方由来の剣を紛失したことについても、どういうことか理解できなかった相当な愚か者だったのだと思います。だから見つからなかった剣を真剣に探さなかったなどと言われたのでしょう。国史上最大の汚点を残しているのが源義経なのです。その後都に戻った義経は、朝廷から任官されますが、本来このような失敗をしでかした義経らがそれを辞退しなかったことは余りにも無神経でした。安徳天皇は後白河法皇の皇孫にあたるのです。源頼朝が激怒するのは当たり前のことだったのです。
 

義経と頼朝の兄弟を見ると、戦後日本の姿ではないか?と思えます。平治の乱に負けて父の源義朝が亡くなった時、頼朝は13歳、義経は2歳。二人とも、義経の同母の幼い兄二人と一緒に命を助けられています。ただし、頼朝はこの時父に従って参戦しており、都落ちの一行の最年少者でした。しかし、雪の中で一行に遅れたため人の情けで匿われたりした後につかまりますが、本来は死刑となるところを平清盛の義母の願いにより助けられ伊豆に流されています。

 

頼朝は戦に加わっているのですから元服を済ましている当時の13歳ともなれば、ある程度教育も一通り終わり色んなことをわかっている年齢です。一方、幼児であった義経は出家のために寺に預けられました。つまり、義経の教育は勝った平家の意向で受けているのです。一方で頼朝は20年間毎日欠かさず、父をはじめとする源氏一門を弔う写経を欠かさず行っていたといいます。

 

義経の無神経さは、その性格ではないかと考えていたのですが、もしかしたらそこに義経の育った環境が関係しているのかもしれないと思えてきます。源氏は(平家もですが)遡れば天皇の子孫です。その天皇が引き継がれてきた三種の神器についての知識がきちんとあったのだろうか?自身が天皇の子孫であるという認識がきちんとあったのだろうか?と思えてきたのです。もちろん、当時の戦の名乗りを考えてもある程度の知識はあったでしょう。しかし、その知識も親や身内から教わったものと、勝ったものから受けるものでは認識が違ってきたのではないか?と思えてくるのです。清盛は、義朝の遺児を恐れていたといいます。実際それは間違いではなかったわけですが、そうした子供に普通の教育を受けさせるでしょうか?なにかしら欠いた教育だったのではないかと思えるのです。つまり、義経は大事な何かが欠けた教育を受けていたのではないか?と。

 

その後の歴史をみれば、本来であれば頼朝は弟たちで周りを固められたはずですが、平家である北条氏に囲まれ、結局鎌倉幕府の源氏は三代で終わり北条の鎌倉幕府となっていきます。つまり、義経への戦後教育が生きた証が鎌倉幕府内で早々に源氏が消滅したことだということです。

 

ひめゆり学徒の話では、年長者と年少者の証言が正反対となっていたと、実際に聞き取りを行っていた方から聞いたことがあります。その後の教育の歪みからその方は年長者の言葉を信じるとおっしゃっていました。同じことを経験しても、その見方が教育で正反対のことに変わってしまうのです。頼朝が、弟たちを信頼できなかったのは、もしかしたら母親が違うというだけでなく、こうしたことが関係しているのかもしれない、と思えてくるし、義経の愚かさもここに要因があるのかもしれないと思えるのです。

 

安徳天皇の御陵は阿彌陀寺陵、山口県下関市阿弥陀寺町にあります。

 

隣には赤間神宮があり安徳天皇は御祭神として祀られています。毎年5月2日~4日には先帝祭が行われています。また有名な耳なし芳一は神仏習合の時代に赤間神宮にあった阿弥陀寺にいた琵琶法師の話です。

 

HPがなくなってしまいましたので、山口県の観光HPから↓

 

福岡県久留米市には全国総本宮の水天宮があります。ここは安徳天皇の母の高倉平中宮に仕えていた女官、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が壇ノ浦の戦いの後に水天宮を祀ったことに始まり、最初は尼御前と称えられ尼御前神社と呼ばれていました。御祭神には天之御中主神、安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼が祀られています。こちらでは5月4日に安徳天皇と平家一門の霊を弔う御神幸祭が行われています。

 

 

 

東京の水天宮は、久留米藩の大名有馬家が代々信仰してきた有馬神社と久留米藩主になってからその土地で尼御前大明神と尊称されていた水天宮の御祭神を、参勤交代の江戸でもお参りできるよう、江戸屋敷に御分霊された屋敷内様が元となります。その水天宮が人々の信仰が篤く堀越にお賽銭を投げる人が後を絶たなかったため、時の藩主は毎月5日に限り屋敷の門を開き人々のお参りを許したといいます。そのため「情け深い」ことを掛けた「情け有馬の水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となったといいます。


水天宮が子供の護り神、また安産・子授けとして有名なのは、幼くして崩御された安徳天皇が守護神とされているからです。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇総覧」

 


先帝祭(安徳天皇826年)水野宮司インタビュー (2011年)

 

安徳天皇は各地に逃れたという伝説がありますが、一番有名なのは四国の山奥に逃れたという伝説です。四国出身の竹宮恵子さんはそれを漫画に描いており、私はそこからこの伝説を知りましたが、今でも平家落人といわれる集落や、安徳天皇縁の場所が残されています。以前これを、四国に行く予定の友人に伝えたところ安徳天皇縁のところをテーマに旅行してきたと報告を受け、考えてた以上に縁の場所があって驚きました。向かったのは阿波、徳島なのですが、徳島は古事記の故郷ともいわれる地であり、だから徳島に向ったのかもしれないと思わせる伝承です。

 

徳島の安徳天皇が火葬された場所に創られたとされる栗枝渡八幡神社

 

 

 

 

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