第三十三代推古天皇は、飛鳥時代の天皇です。また、日本初のみならず東アジア初の女帝です。ただし神功皇后を入れれば、神功皇后こそが初の女帝なんですけれども・・・。

 

現在の歴史教育できちんと天皇として最初に教えられる天皇として、日本人なら誰もが知っている天皇でもありますが、既にこの時三十三代目となっています。何事も始めがあるわけですから、突然天皇が登場する歴史教育はやはりおかしいと言わざるを得ません。

 

御名は額田部(ぬかたべ)、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)。


欽明天皇十五年(554年)生。


御父は欽明天皇、御母は蘇我堅塩媛、蘇我馬子の姉妹なので、豊御食炊屋姫は馬子の姪となります。


また、同母の兄に第三十一代用明天皇、異母兄で夫であった第二十八代宣化天皇系の第三十代敏達天皇、また蘇我系の異母弟である第三十二代崇峻天皇がいました。周りに沢山の天皇候補者がいた時代であることがここから伺えるかと思います。なお、当時は異母兄弟との結婚は当たり前に行われていましたが、同母兄弟のとの結婚は禁じられていました。


在位、崇峻天皇五年(593年)~推古天皇三十六年(628年)。


豊御食炊屋姫は、第三十代敏達天皇の皇后となり、竹田皇子をもうけていました。敏達天皇の崩御の後即位された用明天皇は病の為二年で崩御、またその後の崇峻天皇も暗殺されてしまいます。当時皇子は何人もいましたが、そんな騒然としていた時だったため、群臣が押したのが豊御食炊屋姫だったのです。

 

しかし豊御食炊屋姫は皇位につくよう依頼されても辞退し、三度目の要請でようやく聞き入れて即位されました。


即位すると用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立て政治を任せました。聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子と協力して政を行ったのです。ここ10年ぐらい聖徳太子不在説というのが出てきていますが、それは古代に偉大な実績を残した聖徳太子を疎んじる人達が、現代においてもいることの表れではないかと思います。

 

また、「聖徳太子」という尊称は死後に贈られたものだからいなかったという理由を述べる人は、天皇には名前がなく崩御された後に贈られることはどう説明するのでしょうか?天皇名は全て贈名となっています。だからこそ現在形での天皇はただ「天皇」、もしくは「今上天皇」「今上陛下」といいます。時代によっては「帝」「今上帝」など、呼び方が変わりましたが名前のないことに変わりはありません。
 

聖徳太子不在説というまやかし! 【CGS 日本の歴史 3-1】

 

なお上の動画で聖徳太子にハーフ・クオーター説があると聞いたと出てきますが、ハーフはまずありえません。なぜなら聖徳太子は御両親ともに天皇の血筋だからです。この時代は父方も母方も天皇の血筋でなければ皇太子にはなれませんでした。聖徳太子の父は用明天皇、母は欽明天皇の皇女である穴穂部間人皇女です。父と母は当時あった異母兄妹婚ですから、祖父は欽明天皇です。そして、祖母は父方は蘇我堅塩媛、母方は蘇我小姉君と祖母同士が姉妹でその父は蘇我稲目ということがわかっていますから、クオーターでもないのです。そして蘇我氏は元をたどると孝元天皇にまでいきつく天皇の血筋です。

 

江戸時代の徳川吉宗の時代に即位された桜町天皇がご誕生されたのは元旦でした。この時、元旦に生まれた天皇は神武天皇、垂仁天皇、そして聖徳太子も元旦生まれだったという事で、宮中は大喜びだったそうです。ここで聖徳太子が神武天皇と垂仁天皇と並び登場するという事は、代々その偉業が伝えられてきたことを物語っています。

 

国を固めて気概を示した聖徳太子【CGS 日本人の気概 第2回】

 

推古朝の時代に有名なものに「冠位十二階」と「十七条憲法」の制定があります。明治時代の「五箇条の御誓文」をみると、その内容は「十七条憲法」を参考にされているのがわかります。竹田恒泰氏によれば、十七条憲法は現在も生きている憲法だといいます。また、その内容を読めば現代にも通じる普遍の内容であることが誰でもわかります。日本の非常時に、なぜか人々が協力し合い、助け合おうとすることを邪魔しようとする人たちが多く思えるのは、こうしたことをきちんと教えてこなかったからではないかと考えています。今からでも、十七条憲法は日本人全てに、知ってほしいものだと思います。ただし、きちんと教えられていなくても潜在的にその教えが残っているのが日本でもあり、そうしたことが、何か大きなことが起きた時に、世界と比較すると日本では変な暴動や活動が少ない、あるいは起きないということに繋がっているといえます。

十七条憲法は大和言葉で読むことでより意味が明瞭になります。例えば、第一条は「和を以て貴し」とありますが、この「和」を『わ』ではなく『やはらぎ』と読むと語感だけでも印象が全く変わります。そもそも、「十七条憲法」は、『じゅうななじょうけんぽう』ではなく、『いつくしきのりとをあまりななをち』と日本書紀の読み下し文では読むのです。

 

 


【聖徳太子】から学ぶ日本の心 十七条憲法 冠位十二階

 

改めて読む!十七条憲法の素晴らしさ【CGS 日本の歴史 3-2】

 

 

 

また遣隋使の派遣も行い「日出処天子、書を日没処天子に致す、つつがなきや」は有名です。これは雄略天皇が始めた冊封体制からの脱却から、文化や情報を得るための遣隋使という新しい形を作り上げた知恵でした。そこには当時の国際情勢を読み取った聖徳太子の考えがありました。雄略天皇の時代からの歴史の積み上げを研究したうえでの行動だったのではないかと思います。

 

この国書を見て、隋の煬帝は怒ったといいますが、怒りつつもなぜ東方の小国がこのように誇り高いのか思いを馳せたとも伝わり、この疑問を解くために煬帝は斐世清(はいせいせい)を使者として日本に送り込みました。聖徳太子はこの使者を歓迎し、国内を余すところなく視察させ、帰国する時は遣隋使の小野妹子を再び使者として派遣しました。この時の国書に書かれたのが「天皇」という字で、古来から周辺外交が盛んな日本が「天皇」という言葉を対外的に使用した最初になります。そしてこれにより、独立国家としての誇りを貫かれたのです。

 

やまとのすめらみこと つつしみて 
「東天皇敬みて
もろこしのきみに もおす
西皇帝に曰す」

 

ここからわかることは、外交でははっきりものを言うことが重要であるという事で、その後の日本は聖徳太子を見倣い一部の例外を除き、戦前まではそういう外交を行ってきました。現在の国際政治、特に大陸に対しての姿勢をみると、今この時に日本が本来の毅然とした外交を取り戻さなければ次いつ取り戻せるのかと不安になります。


遣隋使と天皇号のはじまり【CGS 日本の歴史 3-3】


この推古天皇時代は長く善政で飛鳥時代の最盛期を迎えました。それは十七条憲法を代表とする考え方を基盤とした統治の成果だったのかもしれません。

 

しかし、その始まりは女帝を推さなければならないほどの皇位争いがあり、また十七条憲法を作成する必要があったほどの人身の乱れがあったともいう世だったわけです。

 

 

推古天皇三十年(622年)聖徳太子が薨去、推古天皇三十四年(626年)には蘇我馬子が亡くなり、推古天皇三十六年(628年)に推古天皇も崩御され、当時としては長い三十六年の治世が終わりました。聖徳太子が皇太子であったため次代の天皇が決められておらず、また皇位をめぐり不安定な時代となっていきます。

御陵は礒長山田陵、大阪府南河内郡太子町大字山田にあります。

 

 

後に漢風諡号が贈られた時、「古を推した時代」として「推古」となったといいますが、これは聖徳太子が歴史の編修に力を入れ、天皇記・国記をはじめ豪族の歴史が書かれた時代であったからだといいます。国体、つまり国柄というのは歴史から出てくるものであるから、歴史を調べ由来を明らかにする必要があったからです。これらの書の多くは蘇我氏滅亡の際に失われたといいますが、これらが後に記紀編纂の元となったといわれています。


大和郡山市には推古神社があります。地名も額田部です。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」

「日本書紀」


 

 

 

 

聖徳太子の逸話はもちろん、聖徳太子縁のものが日本には沢山あります。もしただの厩戸皇子であれば、このようにたくさんのものが残されたでしょうか?偉業を成し遂げたからこそ、聖徳太子の名前が贈られたのです。

 

世界で現存する最古の企業、金剛組が宮大工の集団として発足したのは、敏達天皇七年(五七八年)のことでした。聖徳太子の命を受けて、百済から三人の工匠が日本に招かれ四天王寺の建立に携わりました。江戸時代まで四天王寺のお抱え宮大工を務め、現在も高松建設の子会社として続いており、その四天王寺のすぐ側に金剛組の会社があるのです。その四天王寺が開山後初めて、コロナ禍で参拝客を入れないため門を閉じたことが話題になったのは記憶に新しいことと思います。

 

またいうまでもなく、世界最古の木造建築である法隆寺も聖徳太子により建立されました。その五重塔の技術がなければ、スカイツリーの建設はできなかったかもしれません。

 

 

 

 

 

大阪や奈良など近畿地方にはいうまでもなく沢山ある聖徳太子縁の地ですが、なんと栃木県には聖徳太子の子孫が移り住んだと伝わる場所があります。温泉があり太子館となっており、屋敷内神社である聖徳太子神社に誰でもお参りできます。ご先祖様として祀られている神社なのです。

 

 

太子信仰が残るほどの偉業を成し遂げたのが聖徳太子であり推古天皇の時代であったということ、そしてその教えがきちんと教えられることがなくなっても潜在的に日本人の中に残っているのはそれだけ長い間日本人がその教えを守ってきたからではないかと思います。

 

「日本の民主主義はなぜ世界一長く続いているのか」では、その理由にこうした教えがあげられています。

 

『学問のすすめ』が十七編なのは福沢諭吉が聖徳太子、いえ「十七条憲法」を意識した・・・、いや現代(作成当時)の十七条憲法を目指していたのかもしれない・・・と思えてきます。

 

 

五箇条の御誓文を歌にした「五つ星きらめく」

 

 

 

 

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