第十七代履中天皇は、古代の天皇です。


御名は伊耶本和気命/去来穂別尊(いざほわけんのみこと)。


御父は仁徳天皇、御母は磐乃媛命(いわのひめのみこと)。

 

仁徳天皇三十一年に第一皇子の伊耶本和気命が皇太子になりましたが、仁徳天皇崩御後即位の前に同母弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ)が謀反し、同じく同母弟の水歯別命(反正天皇)に討たせる事件がありました。そのとき石上神宮へ向かって難を逃れました。石上神宮は武器庫であったと言われ、そのためここに向かったと言われています。

1482701212590.jpg

 

 

しかしそれ以外は、仁徳天皇の治世の後を受け太平な時で国力を順調に発展させました。また、諸国に国史(ふみひと)を置いて諸国の情報を報告させるようにしたのは、履中天皇の時代からでした。


都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)に置きました。現在、奈良県桜井市池之内に稚桜神社がありますが、そこが宮跡と伝わります。これは即位前に難波から石上神宮まで逃れたことから、父祖の地へ都を遷したのかもしれません。

 


履中天皇二年、同母弟の水歯別命(後の反正天皇)を立てて皇太子とされました。仁徳天皇までの皇位継承は一世一代、親から子へあるいは甥へと皇位が継承されてきましたので、この時初めて一世数代というこれまでになかった皇位継承の形が生まれました。仁徳天皇が即位される時にも、末子相続から長幼の序という観念の登場により皇位継承がスムーズにいきませんでしたが、さらに、ここで履中天皇の母の磐乃媛命が葛城氏であることから、外戚氏族の影響により一世数代の時代が始まったともいわれます。そのため、この後の天皇の御代は短くなり、またこの後、皇位継承を巡る身内争いで皇子が殺されたり、また仇討ちで天皇が崩御されるというようなこれまでは考えられなかったようなことが起きるようになっていきます。


古事記によれば六十四歳、日本書紀によれば七十歳にて崩御。


御陵は 百舌鳥耳原南陵、大阪府堺市西区石津ヶ丘にあります。仁徳天皇陵、応神天皇陵に次ぐ大きさです。実はこれは世界五大墳墓に入るといっても過言ではありません。ご存知仁徳天皇陵は世界一の大きさです。そして応神天皇陵はクフ王のピラミッドや始皇帝陵よりも大きく世界第二位の大きさですが、なぜか日本ではそれが教えられていません。そして、履中天皇陵もピラミッドよりははるかに大きいのです。つまり世界第四位の大きさを誇る御陵ですから、世界五大墳墓の内の三つが日本の墳墓であり、しかも親子孫三代の墳墓となってるということなのです。

 

 

 

 

 

履中天皇陵の規模(ウィキペディアより)
墳丘長:365メートル
後円部 - 3段築成
直径:205メートル
高さ:27.6メートル
前方部 - 3段築成
幅:235メートル
高さ:25.3メートル

 

 

堺市はレンタサイクルのシステムが進んでいるエリアの一つです。周辺には百舌鳥古墳群がありますがレンタサイクルがあれば観光客でも楽に回ることができます。私は三度レンタサイクルで回っていますが、まだ見足りません。毎回、仁徳天皇陵は行っていますが、それほど陵がたくさんあるのです。実際に周辺をめぐることで見えてくることもあるかもしれません。是非多くの人に体験してもらいたいと思います。私は陵を回った時の周辺の民家の雰囲気が気に入っています。履中天皇陵の周りの住宅地の雰囲気もとても良かったと記憶しています。

 

電動キックボードはまだ堺市にはないようです↓

 

なお、周辺には仁徳天皇陵、反正天皇陵もありますが、その反正天皇陵に隣接する方違神社に仁徳天皇、履中天皇、反正天皇が皆お祀りされていますので百舌鳥古墳群を巡る時はこの方違神社にお参りしてから始めるのがお薦めです。

 

 

現在、お社は新しくなりました。

 


履中天皇の時代は古墳時代と言われる時代でもありますが、それは土木事業が進められ灌漑技術が発展していった時代ということでもあります。その表れが大きい古墳で、巨大御陵ともなっています。

 

「よみがえる神武天皇」を読むとそうした建国の時代がわかりやすいです。


「天皇家百五十年の戦い」には「政府を建設することは、現在生きている世代の国民だけの問題ではない。すでに亡くなった祖先たちの世代、現在生きている世代、そして、今後生まれてくる子孫の世代に関わるものなのだ」と書かれています。まさにこの建国の時代は、神話ともなるぐらい昔からの祖先の時代から引き継がれた稲穂を大土木事業で発展させていき、そうしたことがはるか未来の私達への恩恵へと繋がったことを示しており、それが現在の我が国の発展であり、またその跡の一つが世界五大墳墓に入る御陵なのです。

 

そしてそうしたことを知ると、普通の日本人であれば今もご先祖様のお祀りをされているその陵墓を世界遺産にして観光地にしようという考えは浮かなばいのではないかと思います。いわゆる世界三大墳墓の始皇帝もクフ王も今は滅亡し子孫の管理もされていないお墓で遺産かもしれませんし、発掘もされていますが、そうしたお墓と子孫が祀り続けているお墓を一緒に考えることはできないはずだと思うのです。遺産ではなく資産ともいうべき場なのです。
残念ながら世界遺産にこの古墳群が入っていますが、あくまでも皇室のご祖先の陵墓があることを忘れてはならないと考えています。

 

 

ご先祖をしっかり祭ってきたからこそ日本は長く続く国となったのではないか?

 

 

 

 

履中天皇の治世は6年、当時の暦の春秋暦で考えればわずか3年ほどでしたが、仁徳天皇の治世を引き継がれた当時がいかに安定した政権であったかがうかがわれる時代でもあります。当時は朝鮮半島からの朝貢があったことが記録され「三国史記」(朝鮮半島の歴史書)にも書かれていた時代です。


参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「古事記」
「 全現代語訳日本書紀」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎