第百二十代仁考(にんこう)天皇は幕末に向かう時代の天皇です。

 

 

寛成12年(1800年)生。

 

御名は恵仁(あやひと)、寛宮(ゆたのみや)。


御父は光格天皇、御母は勧修寺婧子(かじゅうじただこ)。


在位、文化十四年(1817年)から弘化三年(1846年)。

 

江戸幕府の将軍は、第十一代家斉から第十二代家慶の時代です。

 

光格天皇の第六皇子である恵仁親王が八歳の時、中宮欣子(よしこ)内親王(後桃園天皇の第一皇女)の実子となり儲君に定められ、文化十四年三月二十二日光格天皇の譲位により十八歳で即位されました。令和の御代替わりがあるまでは、これが最後の譲位で即位された天皇でした。この譲位により光格天皇は太上天皇(上皇)となられこの二十三年後に崩御されています。

 

古儀の復興に熱心で、光格天皇が崩御された時は父帝に光格天皇と贈り名して諡号(しごう:生前の行いを尊んで送る名)を復活させました。諡号は制度としてありましたが、第五十八代光孝天皇以来、わずかな例外を除き行われていなかったのです。これは九百五十年ぶりのことでした。

 

この諡号復活には、徳川幕府から将軍職在職40年を超えた家斉に昇進の願い出があり、それを認めて前例のない太政大臣に任命していたことから、幕府も認めざるを得なかったということかもしれません。しかもこの前年には、家斉の実父である一橋家の徳川治済(はるさだ)も前例のない准大臣に昇進しています。一方で、光格天皇が実父である閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたところ、幕府はかたくなに拒否しました。

 

この太政大臣に任命した詔では、「武は四方を鎮め、文は万方に及ぶ」と家斉を褒め称えています。そして「長期にわたり将軍職にあり、最も信頼できる臣下として任を全うして、国民は平安に暮らし、周辺諸国からの侵略の心配もなく、国内はきわめて平和である。先に皇居を新造して規模を旧に復し、廃れた祭祀を再興して、その功績は大である。すでに武臣としては最高位にあるが、文官としては尊官に達していない」として太政大臣に任ぜられたのです。しかし現実は、太平に慣れ、武備を怠っていた報いがすぐに顕わになります。既に時代は幕末です。

 

この詔書は吉田松陰が日頃奉唱していたとして、吉田松陰全集に収められているそうです。これは松陰が父の百合之介から習い暗誦させられていたものです。百合之介は、尊皇精神の厚い人物で、家斉をはじめ幕府の天皇に対する横暴な態度を嘆き、怒り、君臣のあるべき姿を息子たちに説いたといいます。この詔書を息子たちに暗誦させることで、非礼な臣下に対しての仁考天皇の御心の大きさ、広さ、天皇としての比類なき尊い姿を刻み込ませ、尊皇精神を培われたのです。

 

このような経緯の中、太政大臣に任命されたにもかかわらず、百合之介が憤慨したように家斉は上京もしていません。幕府としては光格天皇の諡号を認めざるを得なかったでしょう。

 

仁考天皇は学問を好み、しばしば廷臣のために和漢の歴史書や古典を読まれましたが、公家の子弟の教育機関として学習所の建設を決意し、弘化2年(1845年)に講堂の建設に着手しました。天皇はその完成前に崩御されましたが、この講堂の開校が幕末の尊王攘夷に大きな影響を及ぼすこととなりました。仁考天皇崩御後、次の孝明天皇から下賜された勅額により学習所は「学習院」(京都学習院)と名乗るようになり、それが明治天皇により設立された学習院大学の前身である皇族・華族教育期間の学習院となったのです。

 

 

在位中には、文政四年(1821年)伊能忠敬が16年に亘って諸国を巡り測量して作成した「大日本沿海興地図」が完成しています、この三年前に伊能忠敬は亡くなっていましたが、その弟子たちが死を伏せて続け完成させたのです。

 

その二年後の文政六年にはドイツ人シーボルトがオランダ商館員として来日しましたが、その五年後の文政十一年のシーボルト台風の際に座礁したシーボルトの乗船した船の積み荷から日本地図の持ち出しが発覚し、シーボルト事件へと発展しました。そのためこの時の台風はシーボルト台風と名付けられました。この地図は伊能忠敬の地図の縮図で、書物奉行高橋景保が贈ったものでした。幕府はシーボルトをスパイ嫌疑で拘束し、シーボルトの情報収集に協力した疑いで高橋景保ら多くの日本人関係者が投獄され処分され高橋は獄死しました。シーボルトは国外追放の上再渡航禁止処分となりました。しかし、30年後日蘭修好通商条約締結により解除され再来日し、幕府の外交顧問となっています。

 

この頃葛飾北斎が富嶽三十六景の初版の制作を始めています。この作品が後に欧州でゴッホをはじめとする印象派の画壇に大きな影響を与えることになります。また北斎がこの絵を完成させたころには歌川広重が東海道五十三次絵を発表しています。

 

 

文政八年(1825年)、幕府は異国船打払令を出しました。それは外国船がこの頃しばしば来航して上陸しては暴行問題を起こしたからで、フェートン号事件などの影響も大きくありました。それまでは大津浜事件などが起きても新鮮な水と野菜を与えたりしていたのですが、政策を転じたのです。

 

また頼山陽の「日本外史」が著されたのものこの頃です。この本は後に幕末の志士の教科書のような必読書となり、多くの志士が読んでいたことが知られています。

 

 

文政十三年(1830年)の三月から八月にかけてはお陰参りという伊勢神宮への集団参詣が大流行しました。数百万規模で起き、奉公人は主人に無断で、また子供が親に無断で参詣ししたので「抜け参り」とも言われました。

 

文政十三年には、三月に文政大火(江戸の大火事)や、文政京都地震が七月と八月に起きたことから十二月に「天保」に改元されました。

 

天保年間には、天保七年に天保の大飢饉が発生、およそ六年続きました。また東海道大地震が発生し、天保騒動の米穀商商店の打ちこわしや、大塩平八郎の乱、生田万(よろず)の乱と続いていきます。大塩平八郎の乱は、旗本が出兵した乱としては島原の乱以来二百年ぶりのことでした。これは幕府権威失墜を示す事件となり、この騒動の翌日から米価は下がりはじめました。

 

その後もモリソン号事件、蛮社の獄と言われる言論弾圧事件、そして清国でアヘン戦争が勃発の情報が日本に伝わり、攘夷運動に繋がっていきます。

 

天保十三年には幕府は、異国船打払令を廃止、またオランダ国王が幕府に開国を勧告、またフランス船が那覇に来航するなど、歴史の彼方から見ると時代の変化が加速を始めたようにみえる頃です。

 

仁考天皇の時代は、文化・文政・天保・弘化と四つの元号にまたがり29年となっており、この時代に生まれた人達が幕末・明治の志士となっていきます。特に天保の時代の志士には活躍した人が多く、さらに天保六年(1835年~1836年)には、坂本龍馬、小松帯刀、天璋院篤姫、井上馨、松方正義、そして、土方歳三と五代友厚と、歴史に残る人たちが集中しており、現代のアイドルの誕生年と同様に花の天保六年組と呼ぶ人もいます。他にも天保年間では、高杉晋作、伊藤博文、岩崎彌太郎、渋沢栄一、そして日本生まれではありませんが、トーマス・グラバーやアーネスト・サトーも天保年間生まれです。日本で活躍した外国人も実は若い志士達であったということです。そしてもちろん孝明天皇もこの時代で、天保二年(1831年)御誕生です。

 

 

 

『歴代天皇の御製集』では仁考天皇の御製が二首紹介されていますが、その時代を反映した歌と長い御代を述懐したものとなっています。特に、述懐の御製は、天皇の統治は権力による支配ではなく、無私なる御心で神意を奉じて民心をお知りになること、「しらす」「しろしめす」ことが顕れた歌になっています。

 

神祇(文政八年:1825年・・・幕府が外国船打払令を出した年)

天照らすかみのめぐみに幾代々も

我があしはらの國は動かじ

 

天照大御神の有難き恵みによって守られている我が国は、たとえどの時代を経ようとも決して動揺などしない。

 

述懐(弘化二年:1845年)

いつしかと三十年(みとせ)近くなりぬれど

世をしるのみの身ぞおほけなき

 

いつの間にか即位して三十年近くにもなるが、世を「知る」ことこそをつとめとする皇位にある我が身の分不相応で何と畏れ多いことよ。

 

弘化三年(1846年)崩御。

 

天皇の諡号である「仁考」は、候補として最終的に残った「仁考」と「孝明」の中から、天皇の皇子である第百二十一代孝明天皇がご聖断によって決められました。つまりこの時残ったほうが次の孝明天皇が崩御された時の諡号になったわけです。

 

幕末の天皇というと、孝明天皇の名前ばかりが出てきますが、令和の御代替わりで知られるようになった光格天皇、そしてその光格天皇の意思を引き継がれた仁考天皇の時代は幕末に向かう時代を積み重ねてきた時期として注目の時代といえると思います。

 

御陵は後月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。寺内の天皇の陵墓は仁孝天皇が最後となりました。

 

 

 

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参照:歴代天皇で読む日本の正史
宮中祭祀

時代を動かした天皇の言葉

歴代天皇の御製集

 

 

 

 

 

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