記憶にまだ新しい大河ドラマ「篤姫」。あの学問好きな篤姫が嬉々として読んでいたのが頼山陽の「日本外史」、当時のベストセラーです。



一般に広く流布したのが、天保7年(1836)頃、ペリー来航の17年前に初めて江戸で刊行されました。その前から写本は出回ってましたが、刊本となり人気爆発、志士の必読書となったそうです。



なにしろ22刊ある長いものなので、ミニ本も出回るくらいの人気だったとか。幕末の世を走り回っていた志士は、そのミニ本を皆持っていたそうです。



幕末は色んな思想が交錯した時代でした。各藩や幕府、朝廷、あるいは続々来日する外国人達の思惑まであった。そんな中、それぞれ立場の違う日本人達が、無血革命とはいえ内戦まであった時代でも、なんとか一つになれたのはこの「日本外史」がベストセラーになったことでわかる、一つの核です。



頼山陽は「日本外史」を、徹底した『名分論』で書いています。それは東洋的道徳観。一言で説明するなら、「上下関係・身分の違いを絶対視する考え方」です。日本で『名分論』を説く場合、日本人全ての主君は天皇ですから、そのまま『尊王思想』に繋がるわけです。幕末は尊王思想が大きな風潮でした。だから一般読者の共感を呼んで、幕末の志士の必読書となったわけです。



武家があり各藩に分かれていても、日本人の根底にあるのが『尊王思想』つまり天皇を絶対的に敬うことであるのには変わりがなかったのです。



この本は武士の時代の始まり「平氏」から、当時の治世「徳川氏」までの巻でできています。本文の最後には必ず頼山陽の「論賛」がありこれが大きな特徴となってます。その「論賛」の中で、頼山陽はその巻で取り上げた武家を誉めちぎり、次の巻ではその武家をメチャメチャにけなすのです。



つまり武家(時代)が変われば、前の武家が悪く言われるのは世のならい。「歴史は勝者が語る」ものですから、それを実践していたわけですね。



そして幕末当時でも、「尊王」は徳川に敵対する思想ではなかった。(じゃなかったらこの時代に刊行できません)そうしてみると、幕府と反幕府勢力の争いとは、両方がいかに朝廷を味方につけるかの争いだったというのもわかりますし、徳川慶喜が錦の御旗で、勝てると(思われた)戦から逃げ帰ったと言われるのも納得できるわけです。



今の私達が考えている以上に、各藩ごとの独立性がはっきりしていた当時、明治維新後に各藩同士がエンドレスに戦い続けることなく済んだのは、日本人の歴史認識と日本人の核となる考えを示していた本がベストセラーになっていたことと無縁ではないと思います。



そんな本が幕末にベストセラーとなっていた日本は、ほんとに恵まれた国でした。



さあ、問題は今です!



参照:「日本外史 幕末のベストセラーを超現代語訳で読む」PHP研究所、他