第八十九代後深草(ごふかくさ)天皇は鎌倉時代の天皇で、持明院統の祖となります。朝廷が大覚寺統と二つに分かれ後の南北朝へと続く対立はここから始まります。

御父は後嵯峨天皇、御母は西園寺姞子(きつこ)。後嵯峨天皇の第二皇子。また異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府第六代征夷大将軍、亀山天皇は同母の弟。

寛元元年(1243年)生。

諱は久仁。

在位、寛元四年(1246年)から正元元年(1259年)。

寛元四年(1246年)父帝後嵯峨天皇の譲位により四歳で即位したが、十三年後十七歳の時にマラリアを患われ後嵯峨院の指示により、同母弟の恒仁親王へ譲位されました(亀山天皇)。このとき亀山天皇は十一歳でしたが、後に世仁(よひと)親王が誕生されると、後深草天皇の年長の皇子煕仁(ひろひと)親王を差し置いて立太子されます。これも後嵯峨上皇の指示によるものですが、このことが後深草上皇と亀山天皇の対立の始まりとなるのです。この状態のまま後嵯峨院が崩御されると、次の治天の君が後深草院か亀山天皇かで朝幕は揺れますが後嵯峨院は皇位の後継者指名は幕府の指示に従うようにとあるのみでしたので、後深草上皇、亀山天皇の母君である大宮院の藤原姞子に故人の真意を問うと亀山天皇の名があげられたので亀山天皇の親政が決まりました。

後嵯峨院は病弱な兄が発育も遅れていたため、英邁な弟を寵愛し続けたといいます。そして死後も影響を残したのです。そのため後深草上皇には不満がたまっていったわけです。

亀山天皇が世仁親王に譲位(後宇多天皇)した時に、後深草上皇は幕府に働きかけ煕仁皇子を皇太子にすえ、その後には後宇多天皇の退位を働きかけました。その結果、伏見天皇が誕生し後深草院政がスタートしました。さらに皇子の久明親王は鎌倉で第八代の征夷大将軍となります。

つまり今度は亀山院の不満がたまることになり、亀山院は出家をしてしまいました。その出家先が大覚寺(大覚寺統)だったのです。そして後深草院が住んでいた邸宅の名が持明院(持明院統)でした。その後幕府の提案で両統から順番に天皇をだすことが決まり(両統送立)、幕府に皇位継承の順番を決定する権限を与えてしまうことになりました。

なお、この兄弟の確執の間、二度の蒙古襲来(元寇)が起きています。その時の治天の君であった亀山院は祈願等を行っていることが有名です。元寇の際は、亀山上皇の祈りにばかり目が向けられますが、この時同じく上皇であられた後深草上皇も祈願されていたことが残っています。国を護るという想いは一つなのです。そして、それは天智天皇の時代から備えて来たものでもありました。この時築かれた水城が、600年後の防戦に生かされたのです。 


伏見天皇が即位されると後深草院は院政を開始しましたが、この年出家され正式には院政を止められました。しかし、その後も政治への関与は続き持明院統の中心的存在であられました。

正応三年(1290年)伏見天皇暗殺未遂事件、浅原事件が起きます。これは浅原為頼父子(甲斐源氏)が、伏見天皇を殺害しようと宮中に乱入し果たせず自害したのですが、天皇の居場所を問われた下級女官の機転で違う場所を教えて危機を逃れたものです。このとき為頼が自害した時に用いた太刀が三条家に伝わるもので、所有者は前参議三条実盛と判明しましたが、実盛は大覚寺統の公卿であったため伏見天皇は亀山法王が背後にいると疑われました。しかし治天の君だった後深草法王がこの主張を退け、亀山法王も幕府に対して事件に関与していない旨の起請文を送ったことで幕府もそれ以上の詮索はせず、持明院統と大覚寺統の決定的な対立は避けられたのです。この頃は、対立の始まりの時期でもあり、後深草法王と亀山法王は同じ母から生まれた兄弟でしたから、対立はあっても血を分けた兄弟としての近さによる抑制も効いていたのだと思われます。また、平安時代末期に起きた、やはり血を分けた兄弟、崇徳上皇と後白河天皇の争いによる怨霊発動の教訓が頭にあったかもしれません。

朝廷が二つに分裂するきっかけは、病弱な後深草天皇を父帝が譲位させたことでした。両統送立の後、南北朝時代が続き、後深草天皇が譲位した年から明徳の和約(明徳三年/1392年)が成立し南北朝が統一されるまで133年の年月がかかりました。その間、朝廷は衰退の道をたどり世の中は落ち着かず、統一してからも世は乱れ続け、とうとう天皇のお葬式をすることもままならない時代まで来るのです。平安最大の怨霊と言われた崇徳上皇の事変をかつて生みだしたこともあるように、譲位をきっかけとする大なり小なり様々な軋轢が生まれてきた歴史がありますが、最も長期に渡るものとなったのが後嵯峨上皇の指示による後深草天皇の譲位に始まる朝廷の分裂でした。鳥羽上皇の指示による崇徳天皇の譲位後も朝廷を二分する争いが生まれており、譲位には朝廷を分裂させる危険があるため、明治期に皇室典範を作成した際に譲位の項目は作らなかったし、その後2回の見直しの時も譲位の項目は避けられてきたという歴史があります。

嘉元二年(1304年)崩御。

御陵は深草北陵、京都市伏見区深草坊町にあります。

 

遺詔にて「後深草院」と加後号されました。父帝が第五二代嵯峨天皇からの加後号を遺詔されたことから、その皇子であった第五四代仁明天皇の別称の「深草帝」の加後号を選択されたのです。これは後嵯峨天皇の正当な後継者としての主張であり、御陵もそれを意識してこの場所になったものでしょう(仁明天皇の別称は御陵の地名によります。)明治以後、院号が廃止され、後深草天皇と称されるようになりました。

なお翌年崩御された亀山法王は加後号ではありませんが、父の後嵯峨天皇が嵯峨野に建造した離宮の亀山殿を伝領しており、嵯峨の地を残された後嵯峨天皇の後継者として亀山と遺詔しています。これは先に崩御された兄の加後号から、意地をみせたのかもしれません。しかし、兄弟揃って崩御後も後継の正統性を主張したことは、その後も子孫が争い続ける禍根の表れともいえます。皇統が二分し後に南北朝にまで分かれる根深さが親子、兄弟の天皇号からも見えてくるのです。

しかも親子が加後号にした嵯峨天皇が中心となって弟と我が子と交代での皇位継承を行っていたことが、後嵯峨上皇の皇子達である持明院統と大覚寺統の両統送立での皇位継承の先例になっています。後嵯峨天皇にそこまでの意識があったのかどうかわかりませんが、嵯峨上皇が争いのないように保たれた時代と比較すると、歴史は皮肉な巡り合わせをするものです。

 

嵯峨天皇はその前の時代の兄弟の確執から生じた怨霊の時代を教訓にされていたのだと思います。この怨霊の時代に犠牲になった多くは天皇の兄弟達でした。皇室が二分する時、そこに兄弟の確執があることが古来から多くあるのですが、これは神話の時代から伝わる教訓であるといえます。兄弟は仲良くしなければならないし、兄弟喧嘩がある時そこには必ずさらに大きな問題が生じるのです。『天皇の国史』は神話の時代から書かれているので、ここから読み取ることもできます。神話の時代もまた天皇の時代になってからも、兄弟の確執は繰り返されてきました。天武天皇は歴史を稽古照今といいました。これは「過去に学んで今の世の指針を見出す」ということです。その天武天皇も兄弟の確執が後に兄、天智天皇の皇子である大友皇子との壬申の乱に繋がったとされます。また、兄弟の確執に親子の行き違いが加わる時さらなる悲劇を生んでいます。国史を学び現在に生かすために歴史は必要なのであれば、こうしたことが起きないように、起きた時は大きな確執とならないようにしていかなければなりません。国史に何度も出てくる兄弟の確執や、親子の行き違いは、様々な教訓となるはずです。そしてこうした教訓を言葉に残されたのが、聖徳太子の十七条憲法であり、明治時代そこからできた五箇条の御誓文、そして教育勅語であるといえます。これは人の本質は変わらず同じ過ちを繰り返すからでしょう。そして、兄弟の確執や親子の行き違いが起こるのは古今東西変わらないことでもあります。ただし、それによって生じる問題や解決方法には国によっての特徴があるかと思います。それを知っておくには、神話と歴史を知ることが必要ですし、そうした時代の一つが後深草天皇の時代といえます。

 

 

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇を知りたい」
「天皇のすべて」
「天皇を知りたい」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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