本日は旧暦の5月27日ですが、建長元年(1249年)五月二十七日は後嵯峨天皇の第七皇子恒仁(つねひと)親王が誕生された日です。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

父君の後嵯峨天皇は既に譲位されていて、6歳違いの同母兄の後深草天皇の御代のことです。


恒仁親王が十一歳の時、後嵯峨上皇の意向で譲位させられた兄に代わり即位しました(亀山天皇)。父の意向とはいえ、この事が後に兄弟間の確執を生じさせることになります。


院政を敷いていた後嵯峨上皇が崩御されるとご自分の皇子に譲位し(後宇多天皇)、治天の君として院政を開始、諸制度の改革を行い徳政と評される社会改革にも取組みました。


亀山上皇の院政中には二度の元冦があり、国難に殉ずる覚悟で伊勢神宮や石清水八幡宮に敵国調伏を祈願しています。

 

御製から読み解く日本 国のためなら我が命をも 亀山上皇の思いとは

 

また文永一一年(一二七四】蒙古襲来(元寇)により炎上した筥崎宮の社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた「敵国降伏」の御宸筆は有名で現在楼門高く掲げられている額の文字は、文禄年間に小早川隆景が楼門を造営した時に、謹写拡大したものとのこと。

 

 

楼門↓

 

「蒙古軍は二度とも暴風によって撤退したので、神風伝説ができあがったのです」というのは実は戦後の語り方のようで、武士達の働きにより一度目の元冦はほぼ撃退、また二度目の元冦も善戦の上に暴風がきて助けになったという風に明治までは語られてきたそうですから、それが史実に近いのではないでしょうか。

いずれにしても、亀山上皇の祈りの力も大きく後押しされたのではないかと思います。つまり、天皇が祈っておられることは、武士団は知っていたでしょうからそれが武士団の励みになったのではないかと思うのです。そうしたよりどころがある人は強いと思うのです。

 

『日本史サイエンス』では作者が造船エンジニアであることから、蒙古軍船をCGで復元し、蒙古兵の兵力を検証し、蒙古兵そのものが船酔いなどで弱っていたとしているのですが、それは船に載せられる食料や軍馬、また排泄物の量まで推定してでてきたものでこれまでにない科学的な分析となっています。

内容がうかがえる対談↓


博多には天皇の像で一番大きいのではないかと思われる亀山上皇銅像があり、大きさが6メートルあるそうです。その、銅像の原型となったのは、筥崎宮にある亀山上皇尊像奉安殿(福岡指定文化財)の木造です。これらは元寇に対し、「我が身をもって国難にかわらん」と敵国降伏の祈願をし、博多の安寧を祈願された亀山上皇を顕彰して明治時代に造られたもの。630年ほど経っても博多の人々は亀山上皇の御祈願の御恩を忘れていないのです。

 

亀山上皇尊像奉安殿↓

 

亀山上皇銅像とつつじ(福岡県東公園)


後宇多天皇の譲位の後、皇位は後深草上皇の持明院統に移りました。これは鎌倉幕府の介入によるもので、亀山上皇は失意のあまり出家されました。こののち、亀山上皇側の大覚寺統との二つの朝廷となり、これが後に南北朝に繋がっていきます。兄弟の確執を産んでしまったのはその父後嵯峨上皇ですが、これが朝廷が二つに分かれる要因となっていくのです。

 

その後、伏見天皇暗殺未遂事件が起こると、黒幕は亀山法皇であるとの噂が立ちましたが、この時は兄の後深草法王がこの主張を退け、持明院統と大覚寺統の決定的な対立は避けられました。ここは良い意味でも悪い意味でも兄弟の絆が表れています。


父の後嵯峨天皇が嵯峨野に建造した離宮の亀山殿を伝領しており、嵯峨の地を残された後嵯峨の後継者として亀山と遺詔しています。これは先に崩御された兄の加後号、嵯峨天皇の皇子であった仁明天皇の異称「深草」に意地をみせたのかもしれません。しかし、兄弟揃って崩御後もその号によって後継の正統性を主張したことは、その後も子孫が争い続ける禍根が続く前触れにもみえます。皇統が二分し後に南北朝にまで分かれる根深さが兄弟の天皇号からもうかがえるのです。

 

なお、亀山天皇系の大覚寺統と、後深草天皇系の持明院統で交互に皇統を継ぐという両統送立は、嵯峨天皇の頃に弟と皇子の両方の系統から交互に皇位継承したことを先例としたものです。後嵯峨天皇は遺詔しての追号となっていますので、このことを意識されていると思われますので、後深草天皇、亀山天皇もそれに倣ったというのもあるかと思います。

 

亀山天皇というと、後深草上皇との兄弟の確執が朝廷を二つに分けたことと、元寇についてが必ずあげられます。元寇の際は、亀山上皇の祈りにばかり目が向けられますが、この時同じく上皇であられた後深草上皇も祈願されていたことが残っています。国を護るという想いは一つなのです。そして、それは天智天皇の時代から備えて来たものでもありました。この時築かれた水城が、600年後の防戦に生かされたのです。 

 

1491082855891.jpg

 

「敗戦復興の千年史」は、天智天皇が築いた水城が元寇で生かされるまでの流れ、またそのことを学ばれた昭和天皇について書かれています。

 

なお「敵国降伏」の意味は、武力によって敵を降伏させることではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら降伏するという我国の国柄が現れた言葉だということです。これはとても日本的な考え方の言葉ではないかと思います。

 

敵国降伏の言葉については、9分過ぎ頃から↓

今月末の週末が夏越のまつり

 

なお、3年前は奇しくも旧暦での亀山天皇の天長節が爆発的ヒットとなったゲーム、GHOST OF TUSHIMA の発売日と重なりました。(2020年7月17日)海外で作られた新作ゲームソフトで黒澤明を意識した映像もありプロモーション時から話題になっていたものです。ただ、いつの時代の対馬侵略がモデルだかわかりませんが、元寇以前であれば、鎧などがもっと後の時代のもののように思えます。元寇だとするとこの発売日は奇遇です。

 

対馬は半島の国から何度も襲われ、島民全滅に近いことが何度も起きています。元寇においても、元とはいいますが、実際に日本に襲来したほとんどが元に使われた半島、当時の高麗の人が襲っています。そうした人達がいかに残虐であるかは、反日教育を現在行っているのですから知っておいた方がいいでしょう。民族の特性は時代を経ても変わらないことが、歴史を知るとわかってきます。それが昭和の終戦時そしてそれ以降どんな姿をみせてきたかを見れば一目瞭然です。

 

いずれにしても、私はゲームをしませんので詳細はわかりませんが、これを機に対馬をはじめとする国境にある島々がどのように陰惨な目にあってきたかを知ってほしいと思います。国内では考えられないような残虐なことが起きています(ゲームでそこまで描くとは思えませんが)。またこのゲームは海外だから作成できたのではないかと思います。日本製であれば史実通りであってもきっと難癖をつけられる、今の日本ではそうした難癖に負けてしまうのが目に見えています。捏造の歴史でさえも受け入れてしまう弱さは、史実を知らないことから起きます。もうそういうことは止めてほしいですし、そのためには知ることが必要です。

 

 

対馬は神話において、最初に造られた島々に入っている古い歴史のある島でありますが、観光客のほとんどが韓国からとなっていました。観光が大々的に復活した暁には対馬への国内からの観光が増えることを願っています。私もずっと行って見たいと思っている憧れの場所の一つです。

 

 

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎