本日は旧暦の12月1日ですが、鎌倉時代の文永四年十二月一日(1267年12月17日)は、亀山天皇の第二皇子世仁(よひと)親王が誕生された日です。


世仁親王は祖父である後嵯峨上皇の意志により生後八ヶ月で立太子、数え歳の八歳で即位(後宇多天皇)され、父君の亀山上皇が院政を敷かれています。そしてその年元寇来襲がありました。この時亀山上皇が「我が身をもって国難に代えん」との宸筆の願分を石清水八幡宮や筑前筥崎八幡宮に納め祈願されたのは有名ですが、このような父君に幼いとはいえ八歳で天皇として祭祀に向き合われていた後宇多天皇が影響を受けないはずがありません。宮中祭祀になおいっそう励まれたのではないかと推察します。


亀山天皇の宸筆を謹写拡大し楼門高く掲げられている筥崎宮の額

 

 

亀山天皇の御製についての動画

 

松浦先生の和歌の御著書「日本とは和歌」 亀山上皇の和歌も記載されています

 

この当時、父君の亀山上皇とその同母の兄後深草上皇の間では治天の君の争いが起きていましたから、正当な君主である自覚が芽生え始めた時期ではないかとも考えられます。そうした中、こうした大事件が起きたわけですから、そうした自覚の中、自分にしかできない祭祀に、より一層真摯に取り組まれたのではないかと考えられるからです。神事などではわざわざ子供にさせることが多くありますから、この時の天皇が子供だったというのはある意味必然だったのかもしれないとも思えるのです。しかも、この七年後再び元寇の来襲がありましたが、この時でも天皇は十六歳。当時としては成人の年頃ですが、まだお若いのです。歴代の天皇には御幼少の時に即位された天皇が多くいらっしゃいますが、このような国難が二度もあった幼い天皇は、後宇多天皇だけでしょう。そうしたことが、後宇多天皇の人間形成に与えた影響は大きかったのではないでしょうか。


後宇多天皇は遺詔により加後号となっていますが、16世前の宇多天皇号を選ばれています。宇多天皇は寛平の治といわれる天皇親政を行われた天皇で菅原道真は宇多天皇に起用されました。つまり後宇多天皇は宇多天皇の治世を理想とされていたという事になります。


宇多天皇が仁和寺を開基されたように、後宇多天皇は嵯峨天皇が開基された大覚寺を再興されています。


そしてそうした理想を受け継いだのがその皇子であった後醍醐天皇ではないかと思うのです。そして後醍醐天皇御自身も遺詔により加後号とされていますが、宇多天皇の皇子であった醍醐天皇の名前を選ばれているのは、醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としており醍醐天皇にあやかり生前自ら後醍醐の号を定めていたといいますが、それを目指したのも父君である後宇多天皇の存在があればこそではなかったか、と。


歴史は点ではなく線で見ると繋がっていきます。竹田恒泰さんは孝明天皇について研究されていますが、その孝明天皇は先見の明があったと語られています。現在のような状況をみこして開国に反対されていたのだというのです。そういわれてみると御歴代の天皇の視点を見る目が変わってくるかと思います。そしてそのような視点を持たれていたのが昭和天皇です。昭和天皇は戦後復興には300年かかると語られています。それは天智天皇から始まる復興の歴史からの御言葉ではないかといいます。天智天皇が日本防衛のために造らせた水城が元寇の際に役立っており、それは天智天皇の時代から約600年後のことでした。その約300年前が醍醐天皇の時代だったのですが、上記の「敵国降伏」という言葉はその醍醐天皇が最初に勅願された言葉であり(筥崎宮には以後の天皇の御宸筆が納められその一つの亀山天皇御宸筆を拡大したものが上の写真の楼門に掲げられたもの)その醍醐天皇の父君の宇多天皇の時代に天智天皇の時代に唐の情報を得るために始まった遣唐使がもう必要ないと廃止されています。二度もの元寇に遭遇した後宇多天皇もそうした歴史の流れを当然意識されたことでしょうし、こうしたことは上皇陛下や天皇陛下にも受け継がれていることと思います。しかも天皇陛下は歴史がご専門であらせられます。
 

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なお、「敵国降伏」の意味は、武力によって敵を降伏させることではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら降伏するという我国の国柄が現れた言葉だということです。

 

後宇多天皇が、いかに後醍醐天皇への天皇教育を行ったかが分かり易い「室町・戦国天皇列伝」

蒙古襲来の様子を科学的に解き明かした『日本史サイエンス』

 

 

 

 

本日は上皇陛下のお誕生日\(^o^)/

 

 

 

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