本日は、旧暦の五月九日ですが、正歴五年五月九日(994年)は冷泉天皇の第二皇子、居貞親王に第一皇子である敦明親王が誕生された日です。

※単純に旧暦に当てはめています。

 

居貞親王は、この時従兄弟である一条天皇の東宮となっていましたが、それは居貞親王の外祖父である藤原兼家の後押しによるものでした。兼家は一条天皇の外祖父でもありました。つまり、兼家は天皇二代続いて外祖父であることになったのです。

 

居貞親王の父君冷泉上皇は精神病を患われていたため後見が弱かったのですが、外祖父の兼家は、同じく娘を入内させた冷泉上皇の弟であり一条天皇の父君である円融天皇と不仲でありました。また、一条天皇には同母の弟がいなかったのに対し、居貞親王には同母の弟が二人いたことから、兼家は冷泉上皇系統を重視していたといわれます。

 

しかし、敦明親王が誕生された時には既に兼家は病没した後であり、また敦明親王は兼家の息子たちではなく藤原済時の娘である娍子から生まれていました。また兼家の五男道長の娘である妍子からは内親王しか生まれていなかったため、居貞親王の後見はとても弱くなっている状態でした。

 

しかも、一条天皇には道長を外祖父とする敦成親王が誕生していましたから、寛弘八年(1011年)一条天皇が崩御され、長い東宮時代を経てようやく居貞親王が即位された(三条天皇)時、皇太子には本来の敦明親王ではなく、敦成親王が立てられたのです。

 

三条天皇四年目の長和三年(1014年)に天皇の片眼が見えなくなり、片耳も聞こえなくなりました。道長はこれを理由に譲位を迫るようになります。前年とこの年、内裏があいついで焼失したことなどが怨霊の仕業ともいわれ、天皇に対する精神的打撃の大きいことが重なった上に、道長との確執もあり、その症状から緑内障だったといいます。

 

三条天皇は譲位の圧力に抵抗しますが、病状は回復と悪化を繰り返し、遂に長和五年(1016年)、三条天皇は敦明親王の立太子を条件に譲位され、敦成親王が即位(後一条天皇)しました。

 

敦明親王は皇太子となられましたが、諸官人は春宮関係の官職を忌避、また道長も皇太子に伝えるべき、壺切の剣を渡さないなど嫌がらせが続きました。

 

翌年寛仁元年(1017年)四月に三条上皇が崩御されると、道長の圧力や、また天皇が14歳も年下であることから次期天皇となる可能性も低いとして、敦明親王は皇太子を辞退されました。皇太子には、後一条天皇の同母の弟である敦良親王が立たれました。

 

敦明親王は皇太子を辞退することにより、道長より厚遇を受け、小一条院の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得、また道長の娘である寛子を妃に向かえました。またその子供たちは、二世王でありながら親王宣下を受ける待遇も得ています。

 

一方で、寛子が妃になることにより敦明親王に捨てられる形となってしまった左大臣藤原顕光の娘延子は哀しみのあまり急死し、その後数年で顕光も急死しました。顕光父娘は道長一族に祟ったとも伝えられます。

 

敦明親王は天皇の皇子として生まれたため嫌がらせを受け、また父帝が受けていた嫌がらせも見ながら育っています。しかし、年齢からも帝になる可能性は低いと、皇太子を辞退して厚遇を得たわけですから、現実主義であり、後見がないと生きづらかった皇室の中では処世術がうまかったといえます。いずれにしても、これにより敦明親王は皇統争いからはずれることができ、心労を減らすこともできたものと思われます。こうした処世術も生きていく上では必要なことでもあります。

 

内裏炎上で避難する際には、母后を抱えて走り、また冠り物がなかった父帝には自分の烏帽子を譲った逸話が残り、情に篤い人柄も伝わっています。

 

なお、小一条院の第四王子は、源氏の賜姓を受け源基平となり参議になっています。基平の子の行宗は後に大蔵卿になり、また崇徳院歌壇で重きをなしていきました。また基平の弟、信宗、顕宗、当宗も源氏賜姓を受け、三条源氏となりました。

 

参照:病が語る日本史

公家源氏

 

 

 

日本には様々な礼法がありますが、これは社会生活を円滑に進めるための叡智といえるます。

礼節を知ることは処世術の第一歩といえます。

 

 

 

 

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