第八十二代後鳥羽天皇は鎌倉時代が始まった時の天皇です。

 

治承四年(1180年)生。

 

御名は尊成(たかひら)。

 

御父は高倉天皇、御母は藤原殖子。また御祖父は後白河院です。そして二歳違いの異母兄は安徳天皇です。

 

在位、寿永二年(1183年)から建久九年(1198年)。

 

高倉天皇の第四皇子尊成親王は、福原遷都や源頼朝挙兵の年に誕生しました。その当時既に譲位され上皇となられていた父帝は、そのわずか半年後に崩御されています。

 

その二年後、平家が安徳天皇を伴い都落ちしたため京は天皇不在となり、新天皇を立てることとなります。京入中の木曽義仲は似仁王の王子、北陸宮を推しましたが、後白河法王は尊成親王を選びました。しかし、三種の神器を平家が持ち去っていたため、法王の院宣により神器なしで践祚したのは異例なことでした。また安徳天皇が檀浦で崩御される文治元年(1185年)までの二年間、二人の天皇が同時に存在していたことになります。

 

後鳥羽天皇の在位前半は幼少でもあり後白河法王の院政でしたが、建久三年(1192年)に法王が崩じると、親政となりました。ただしまだ若すぎましたので、関白九条兼実の指導がありました。建久九年(1198年)十九歳で第一皇子の為仁親王(土御門天皇)に譲位すると院政を開始し、順徳天皇、仲恭天皇の三代、二十三年間上皇として政治を行われています。

 

また後白河法王は源頼朝熱望の征夷大将軍の職を与えませんでしたが、後鳥羽天皇が宣下することにより鎌倉幕府が開かれることとなりました。征夷大将軍の任命は天皇にしかできないのです。

 

後鳥羽上皇は武芸全般にも通じており、その後の承久の変に繋がったといいます。承久の変では、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵されました。これは、頼朝が征夷大将軍になった翌年に急死し、二代目、三代目と次々将軍が変わった上に三代目の実朝が暗殺されるなどの幕府の安定感のなさと、朝廷と幕府との間で皇族将軍を迎える協定を実朝暗殺後に上皇が「日本を二つに分けることになる」と拒否したための幕府からの圧力等があり討伐決断に至ったといいます。

 

 

しかし鎌倉武士の結束は北条政子の名演説もあって硬く、上皇軍は敗れました。上皇は北条義時追討の院宣を撤回。その後、鳥羽殿に幽閉、出家させられた後、隠岐へ配流されました。上皇が三人も配流された異常な事態でしたが、それでも誰も天皇にとって代ろうとはせず皇統は続いていくという事が後世の私達でも理解しやすい国史上の大事件でもあります。

 

 

 

 

隠岐へ十八年配流の後、延応元年(1239年)崩御。

 

崩御直後は顕徳院(けんとくいん)の諡名が贈られましたが、嫡孫の後嵯峨天皇が即位された後に後鳥羽院と改められました。これは、怨みを残して崩御された天皇に徳の名を贈る慣例がありますが、後嵯峨天皇即位により怨霊の恐れがなくなったことによります。

 

御陵は大原陵、京都市左京区大原勝林院町にあります。

 

縁の神社は以下の神社です。

隠岐神社・・・後鳥羽上皇の院跡

 

後鳥羽神社・・・後鳥羽上皇の伝説がある神社

 

水無瀬神宮・・・隠岐にあっても後鳥羽上が懐かしまれた離宮跡。後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇が御祭神。本日、後鳥羽天皇祭が行われます。

 

後鳥羽上皇は歌人としても有名で、自ら「新古今和歌集」を勅撰しました。自身の歌も二十余首採録されていますが、貴賤男女の差別なく優れた和歌を集めたといいます。そして隠岐へ流された後も追加削除を行い、さらに「隠岐本新古今和歌集」も残しました。歌人の藤原定家とは親しくしていましたが、ある時仲たがいをしてしまいます。しかしそれを後悔した定家が百人一首を編纂した説があります。百人一首には色んな説がありますが、定家と後鳥羽上皇の繋がりから誕生したことに間違いはないようです。


後鳥羽上皇と仲違いしたという藤原定家が、その後に後鳥羽上皇のために編んだとも言われる百人一首、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』を読むとこの時代の見方が変わるかもしれません。


 

第2回 御製に込められた後鳥羽上皇の意志【CGS 御製】

 

またその他にも書画、管弦、蹴鞠、相撲、水練、射芸など、多芸多才で、鍛冶を指揮し自ら作刀して臣下に与えたともいいます。現在でもそうですが、天皇が関わることで職人が発奮する、ということは古来からあり、この後鳥羽天皇の指揮下の元、刀鍛冶は刀作りに励んだのでしょう。2年前、後鳥羽上皇が隠岐の島遷幸800年(承久の変800年)としてのイベントがありましたが、そこでも刀のイベントが行われていることが、そうしたことを物語っています。なお、人気の漫画『KATANA』では、後鳥羽天皇編が刊行されています。

 

この絵では、冠の纓(えい)が下に垂れていますので、後鳥羽上皇ということになります。天皇の纓はまっすぐ上に立っているからです。

 

なお、皇室の紋章の菊は後鳥羽上皇が好んで使用したことで、それまで菊紋を使用していた者も遠慮するようになったのが始まりといわれます。

 

 

三種の神器なしで即位されたことを後鳥羽天皇は生涯気にされていたと伝わります。しかも壇ノ浦で安徳天皇と一緒に沈んだ神器の内の宝剣が回収できなかったため、元服の儀にも宝剣なしで儀式が行われました。宝剣の探索も数回命じられており、譲位後も探索をさせています。現在の宝剣は、順徳天皇践祚に際して後白河法皇に伊勢神宮から献上されていた剣を宝剣とみなしたものですが、これは三種の神器が持ち出される前月に献上されたものでした。なお、三種の神器は、鏡と宝剣はそれぞれ神宮と熱田神宮にあり宮中にあるのは形代ですから、失われた宝剣は形代となります。ただし、形代であっても形代を本物として扱うからこそ形代となりますので、何度も探索が行われたのです。この皇位の象徴である三種の神器なく即位されたことが、後鳥羽天皇がより一層皇位を意識され、それが強硬な政治姿勢になったともいわれます。

 

 

長い伝統の続く皇室で、伝統を維持できなかったり、伝統に反することがあった時の天皇への重圧、プレッシャーは常人には想像できないほどのものだと推察できます。だからこそ、伝統を維持できるようにするのが国民の務めとなるという歴史の一例ともなっているのが、後鳥羽天皇の即位の経緯ではないかと思います。

 

令和の御代替わりでは、元号の発令前の発表や譲位であるにもかかわらず同日に儀式を行われなかったこと、「皇太后」や「皇太弟」という敬称を使わないことなど異例が続いています。こうしたことが、上皇陛下や天皇陛下、秋篠宮殿下、また皇室の方々へ与えているであろう重圧には本当に申し訳なく思います。そうしたことの一つが、剣璽承継の儀であり、これがいかに異例であったかは、歴史を知ると一目瞭然です。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴史人別冊天皇の謎と秘史」

 

昨日は、神武天皇祭が宮中と橿原神宮で行われ、伊勢をはじめ各地の神社で遥拝式が行われました。

 

 

 

 

 

本日は護王祭でもあります↓

 

また、三船敏郎さんのお誕生日でもあります。公式には(届け出は)4月1日ですが、本来は4日だそうです。

明日は春馬君の御誕生日\(^o^)/

 

 

 

 

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