本日は旧暦では10月10日で出雲の神在祭始まりの日ですが、建保六年十月十日、西暦では1218年10月30日は、順徳天皇の第三皇子の懐成親王が誕生した日となります。

 

その翌月には立太子し、満三歳の承久三年(1221年)四月三日には順徳天皇が父の後鳥羽上皇との倒幕に関わって譲位されたため践祚しています。その討幕、承久の変の結果、同年七月九日には鎌倉幕府の沙汰により幼い天皇は廃され、後堀河天皇が即位しました。

 

 

正式な即位礼や大嘗祭も行われないうちに約3ヵ月で廃位の形となったため、半分天皇で半分天皇ではないとして、半帝、後廃帝(のちのはいてい)、または九条廃帝と呼ばれました。洛中に鎌倉武士があふれたとき、幼い天皇は摂政であり叔父でもある九条道家の邸内に逃れたからです。

 

その後、父の順徳上皇、祖父の後鳥羽上皇、そして叔父の土御門上皇まで流され有力な後見人のいない状態の中成長していった幼い半帝は歴代の幼い天皇の中で一番かわいそうな天皇だったのではないかと思います。夭折した安徳天皇や四条天皇がいますが、夭折されるまでは周りに大切にされていたと思います。しかし、半帝は四面楚歌の環境だったのではないかと思われるからです。そんな環境が幼い子供にいいはずがありません。実際半帝は満15歳で崩御されています。

 

そしてちゃんとした諡号が贈られ仲恭天皇とされたのは明治三年(1870年)です。順徳天皇の第三皇子であったため「仲」の字に「恭」が添えられたのだといいます。

 

歴代の天皇や皇子について知ると、皇統に連なったがために受難となった方がたくさんいらっしゃいます。また、皇統としてその運命と闘われた方も多くいらっしゃいます。その前者である仲恭天皇と土御門天皇は、後者である後鳥羽天皇、順徳天皇よりも先に崩御されています。一番長命であった後鳥羽天皇のお気持ちはいかばかりだったでしょうか。

 

また天皇の歴史をみると、擁護者のいなくなった幼い天皇はみな夭折しています。子どもにとって庇護者、親などの愛情がいかに大切かを考えさせられます。

 

京都の東福寺駅から東福寺に向かう街道に出る手前には仲恭天皇の御陵の参道碑があります。しかし、実は仲恭天皇がここにお眠りになられていたわけではありません。仲恭天皇の御陵の記録はなく、崩御された場所に因んで現在の御陵はあるのです。ただし、廃帝塚と呼ばれる場所があり、そこは現在陵墓参考地となっているそうです。

 

この近くには御寺湧泉寺があり多くの天皇の御陵がありますが、御陵においてもポツンとお一人だけの寂しい天皇陵となっています。

 

なお御陵が空であることが分かっている天皇が何人かいらっしゃいますが、御陵はお祭りされるときの指標のようなもので、空であろうがなかろうがそれは関係ないと竹田恒泰さんがおっしゃっていました。お祭りされること、祈られることが大切であるということです。

 

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明治十年(1877年)京都五条にある若宮八幡宮社に神霊が奉遷されました。こちらの神社では、ご先祖である応神天皇、仲哀天皇、神功皇后と一緒に祀られています。

 

庇護者・保護者がいない中で独り闘ってきたというと、二年前の夏以降どうしても三浦春馬さんのことが頭から離れません。孤独な中で多くのメッセージを考え残されています。どれだけ恐ろしかったかとその最期の時にどんどん痩せていったことを考えると本当に胸が痛いです。

 

 

 

出雲は今日から神在祭\(^o^)/

そして本日は明治節\(^o^)/

 

 

 

 

 

 

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