一昨日、公開2周年記念で上映の「天外者」を観てきました。チケットの予約をしていなかったので、近いところはみな満席で売り切れていて、いつもは行かない郊外の映画館で観てきました。2年経ちDVD等の発売もされているのに、今もこうして観られているって本当に凄いことだと思います。そして何度も観ているのに、感動を与えてくれるこの作品も素晴らしいと改めて感じてきました。

 

この日だけの特典の田中監督からのメッセージカード。

 

そしてこの日は、三浦春馬さん縁の伊東甲子太郎の命日とも重なっていたんです。

新暦で法要が営まれています↓

 

2年前には新暦でしたが命日に、伊東甲子太郎の顕彰碑が茨城県かすみがうら市に建てられています。三浦春馬さんが映画「銀魂2」で、伊東甲子太郎がモデルとなった伊東鴨太郎を演じた時に、モデルとなった伊東甲子太郎のことは知っていたとおっしゃっていましたが、土浦出身の三浦さんからすればほぼ地元の歴史上の人物だったわけだから、当然だったわけです。

旧中志筑村(現かすみがうら市)出身で新選組幹部の「参謀」として幕末に活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835~67年)を顕彰する石碑の除幕式が18日、同市中志筑の志筑城跡で開かれた。碑は地元の歴史的人物に光を当てようと、有志が建てた。この日は甲子太郎の命日で、甲子太郎の墓があり暗殺された場所でもある京都から寺院の住職らが駆け付け、偉人の功績に思いをはせた。  石碑は住民有志14人でつくる「中志筑史源保全の会」が、市のまちづくりファンドを活用して建てた。碑には漢学者、塩谷温氏が甲子太郎の事績を漢文で記した書を刻んだ。城跡内の樹齢500年超といわれるクスノキの前に設置され、隣にはステンレス製の解説板と碑文の概要を記した石板を建てた。  除幕式で同会の瀧ケ崎洋之会長(79)は「碑を訪ねて、在りし日の甲子太郎の志に思いをはせてもらえれば」と期待した。坪井透市長は「歴史のロマンを感じる。住民有志の熱い思いに敬意を表したい」と述べた。  甲子太郎の墓がある戒光寺(京都市)の渡辺恭章住職(57)は「甲子太郎は死んでも天皇ゆかりの寺で御陵(皇室の墓)を守っている。生地に顕彰碑ができ、非常にご縁を感じる」と話した。  甲子太郎が新選組に暗殺され絶命した記録が残る本光寺(同)の青木照瑠(しょうりゅう)住職(68)は「顕彰されて甲子太郎も喜んでいるのでは。茨城と京都のつながりが深まり、交流が広がれば」と願った。  甲子太郎の弟で元新撰組隊士、鈴木三木三郎(美樹三郎)の子孫に当たる鈴木基弘さん(51)=石岡市=は「子孫としてありがたい。1人の人物を通して研究やまちづくりが発展してほしい」と思いを込めた。

 

前述したように、伊東甲子太郎の新暦の命日で行われた行事ですが、当時は旧暦でしたから実際は約1カ月後が命日でした。明治の改暦以前についてはやはり旧暦に当てはめる方が自然だと考えています。今年の旧暦では12月11日が旧暦の11月18日にあたります。155年前のこの日に伊東甲子太郎は亡くなったということになります。1か月ずれると季節感もずいぶん変わります。現在便宜上、旧暦の日付を新暦に当てはめて行事が行われることが多くありますが、いつか旧暦にきちんと当てはめる日になればいいと最近では考えるようになっています。

 

ところで2年前は、伊東甲子太郎の生家を示す地図が見つかったニュースもありました。顕彰碑を建て地元の歴史的人物を見直す一環で探し出されたということだったのかもしれません。

 

 

伊東甲子太郎は、映画「銀魂2」で三浦春馬さんが演じた伊東鴨太郎のモデルとなった人物ですが、この役の依頼があった時、三浦さんは原作漫画を読んでいなかったにもかかわらず、伊東甲子太郎と芹沢鴨が組み合わさった人物と聞いてすぐに想像がついたというようなことを語っていました。つまり、三浦さんは幕末の人物をよく知っていたわけです。もしかしたら、幕末物の映画やドラマというのがよくあるものですから、そういうものに出たいと考えていて本を読んだり、あるいは大河ドラマの「新選組!」のファンだったのかもしれません。春馬さんが10代初めの頃に放映された大河ドラマ「新選組!」では、伊東甲子太郎は谷原章介さんが演じ、芹沢鴨は佐藤浩市さんが演じていました。さらに、伊東甲子太郎については茨城県出身なわけですから、子供の頃から地元出身者として知っていたのかもしれないと考えています。

 

新選組に関わった人物というとだいたい新選組目線で語られたり、物語となる事が多いものですから、そうなると新選組によって暗殺された人物も敵役、悪役としての描写が多いです。私も今まで随分新選組物を見たり読んだりして来たので、そういうイメージがありました。しかし、芹沢鴨についてのイメージは変わりませんが、伊東甲子太郎については改めて知ると随分印象が変わりました。そして、原作漫画の銀魂の伊東鴨太郎が実際どのように描写されているのかは知りませんが、映画の描写を見る限り、芹沢鴨要素より伊東甲子太郎要素で描かれているような気がしました。

 

というのも映画の伊東鴨太郎は、清廉潔白ぽい悪役で三浦春馬さんが演じたくらいのいい男でしたが、実際の伊東甲子太郎も容姿端麗で弁舌たくみで人望も高かったと伝わるからです。だからこそ、「新選組!」では谷原章介さんが演じたのでしょう。

 

私が初めて伊東甲子太郎を知ったのは、和田慎二さんの新選組もの『あさぎ色の伝説』から。この甲子太郎も怪しく、しかし颯爽とした人物として描かれていました。なお、この表紙は主役の沖田総司です。

 

 

伊東 甲子太郎(いとう かしたろう) は、新選組参謀及び文学師範でした。新選組は、もともと尊皇攘夷の志を抱く浪士集団として結成されたものですが、京に上ると本意ではない市中警備を任されました。そこで、近藤勇は、伊東を加えることで思想的な筋金を入れようと考えたといわれます。

 

伊東は常陸志筑(しづく)藩士鈴木専右衛門の長男として天保五年十二月三日(1835年1月1日)に生まれましたが、父が失脚して藩を追われ水戸へ遊学して後期水戸学の影響を強く受けた後、江戸へ出て北辰一刀流伊東誠一郎の道場に入門し剣の腕を認めれられて婿養子となりました。

*志筑藩は現かすみがうら市周辺を知行した小藩。かすみがうら市は三浦春馬さんご出身の土浦市に隣接しています。

 

その後同門の藤堂平助に、江戸に下向中の近藤勇を紹介されて門弟数名を引き連れて新選組に加盟し京に上っています。この上洛の年の「甲子」にちなんで甲子太郎と改名しました。「きねたろう」とも読めますが、同時代の史料に「樫太郎」と表記されたものがあることから、「かしたろう」が正しいとされています。 

 

伊東は新選組と尊皇攘夷では結ばれていましたが、新選組は佐幕派で、勤皇(倒幕)を説く伊東とは長州征伐に反対するなど考え方に違いがあり、近藤との溝を深めていきました。そこで、伊東は根回しをして慶応三年三月武家伝奏より孝明天皇の御陵警衛の任を受け、十数名の同志と共に新選組から離脱しました。

 

これには近藤勇や土方歳三は苦々しく思ったかもしれませんが、天皇権威を背景に行動する以上容易に手出しはできません。

 

そこで誘い出し、近藤勇の妾宅で酒をふるまわれた帰宅途中に襲われ暗殺されました。それが 慶応三年十一月十八日(1867年12月13日)155年前の二日前のことだったわけです。本光寺前で絶命したためその地名により油小路の変と呼ばれていますが、甲子太郎の遺骸は放置されそれを引き取りに来た御陵衛士も粛清したという壮絶な現場だったと伝わります。

 

この3日前には坂本龍馬が暗殺されており、暗殺現場に落ちていた刀の鞘を新選組隊士の所持物であると証言したことから暗殺されたともいわれます。なお、坂本龍馬に暗殺の危機が迫っていると忠告したのも伊東甲子太郎だといいます。

 

甲子太郎はこの年、数通の建白書を書いており、公家を上に置き、徳川家も参加させ畿内五カ国を直轄領とする新政権を構想していました。兵庫開港には反対しつつ、国民皆兵や海外貿易による富国強兵も考えており、維新を見据えた内容でした。この酒席にも建白書を持参しており、近藤を説得しようとしていたともいいます。

 

その内容を考えると完全に一致とはいえませんが、五代友厚の上申書と通ずるものがあり、そうしたことを役を演じる時に色々と調べてきた三浦春馬さんももしかしたら感じていたのではないか、と考えています。

 

伊東の遺骸は奪還しようとして殺害された御陵衛士3名と共に新選組により光縁寺に埋葬されましたが、その後御陵衛士の手で泉涌寺内の戒光寺に改葬されています。これは、伊東の遺骸を奪還しようとして亡くなった毛内有之介が「自分は先帝の御陵衛士であるから万一の時は御陵のある泉湧寺山内に葬っていただきたい」という遺言に従ったもので他の三名も一緒に葬ったということになります。

 

泉涌寺の一番奥に孝明天皇陵はあります。京都の撮影の時、もしかしたら春馬さんも伊東甲子太郎のお参りに訪れていたということもあるかもしれません。

 

大正7年伊東には従五位が追贈され、昭和7年靖国神社に合祀されました。素行の悪かった芹沢鴨は、合祀されていませんからやはり対照的です。「永遠の0」の映画の後、三浦春馬さんは毎年靖国神社参拝を続けてきたといいますが、もしかしたら「銀魂2」の後は伊東甲子太郎に参拝の気持ちもあったかもしれません。

参照:暗殺の幕末維新史、他

 

「刀で人を殺しても世の中は変わりはせん」と「天外者」の五代友厚が言っていますが、幕末維新では有能な人材の多くが暗殺されたり、斬りあったりしており、その多くが若い人達でした。友厚も命を何度も狙われています。時代の変換機は若い人たちが活躍しますが、亡くすことだけはしてほしくないとあらためて思います。

 

 

伊東鴨太郎は、真選組の隊服で死ぬことになりますが、伊東甲子太郎の最期は御陵衛士でした。

 

役を依頼された時について語ったものはみつけられませんでしたが、別のインタビューです↓

 

この甲子太郎の思想は、やはり水戸遊学の影響が強いかと思います。水戸は元々勤皇思想が強い場所だからです。そして春馬さんの国を思う気持ちが強いのもこうした茨城育ちが育んだものかもしれないと考えています。多分、そうした意識は子供の頃や、20代初めの頃はなかったかもしれませんが、成長とともに役作りのために色々と勉強をするにつれて、日本について多くを知るようになり、そうした土壌、生まれ育ちの基礎が芽吹いたのではないかと考えています。知ることは、思考を促しますが、そこに日本人としての基礎がしっかりとあって、あの日本を深く思う三浦春馬さんが誕生したのではないかと思うのは、この甲子太郎について調べていくうちに考え至りました。それは、春馬さんを知るようになってから、なぜ春馬さんがこのようにしっかりした日本人として成長したのかが興味深くてずっと考えていたので、そう気づかされたんだと思います。

 

こうした基礎は昔の日本人はみな持っていたと思います。だからこそ幕末に政治思想が目まぐるしく変わっていく中でもその根本に尊皇の心があった志士たちは、意見をぶつけ合い、斬りあいまでしても、最後には一つになることができました。そうした試行錯誤ができたのも芯が一つだったからです。でも、できれば無用な斬りあいは二度としてほしくないし、斬りあいに相当するようなことも避けてもらいたいものです。

 

しかし、同じように育っても、また同じ作品に出ても、こうした精神的成長が同じでないのは人によってその土壌が違うからですし、その探求心も違うからです。春馬さんのインタビューを見たり読んだりすると、とてもその内容が深く、日々色んなことを学ばれてきたその探求心が分かります。そして、そうした春馬くんだったからこそ、今も支持され、多くの人に影響を与えているのだと思います。こうした影響力のある若い人が、もっと力と影響力を付けたら日本は大きく変わることができたのではないかと思いますが、だからこそ春馬君は恐れられたのかもしれないとも考えるのです。歴史をみれば、才能のある人が敵に抹殺されるということは古今東西起きてきたことです。三浦春馬さんはあらゆる面で才能があり過ぎる稀有な存在、天外者=壮絶な才能の持ち主、そのものでした。その才能があだとなってしまったとしたら、それを守れなかった我が国は情けないというしかありません。

 

また三浦春馬さんのことにつけこんで、もっともらしいことを色々と書き込みをしたり拡散したりしている人達がいますが、春馬さんのファン、あるいは三浦さんを想う人達にはよく考えてこうしたことにつけこまれないようにしてほしいと思います。また、既存メディアがみな何も書けない中、春馬さんについてどんどん書ける媒体がどういう媒体なのか?よく考えてもらいたいとも思います。そこに起稿している人達がどういう人達であるのかも。人が弱っているところに付け込む人たちが必ずいることは知っておかなければ利用されるばかりです。もっともらしいことを書かなければ信用されませんから、信じてしまうようなことを伝えてきますが、そうしたことがおかしいということに気づいて欲しいです。そしてなによりもそうしたことを三浦春馬さんが望んだか?ということも。それもある意味背乗りの一種なのです。

 

 

伊東甲子太郎があと1か月遅く生まれていたら天保六年組でした。つまり伊東甲子太郎と五代友厚はほぼ同世代だったわけです。天保六年組のメンバーはこちらをどうぞ↓

 

伊東甲子太郎を検索したら出てきた伊東歌詞太郎。もしかしたら春馬君も聴いていたかもしれないなあなんて考えています。思わず動画チャンネル登録しました。

 

 

 

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