慶応三年十月十四日(1867年11月9日)江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上しました。十五代、二百五十七年に亘る徳川幕府の時代が終わった時です。旧暦でいえば今週の月曜日が旧暦の10月14日、大政奉還155年目の日でした。

 

つまり、現代は江戸時代が終わってからたった155年しか経っていません。たった155年でずいぶん世界は変わったと改めて数字をみると驚かされませんか?

 

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上記の絵は、その前日慶喜が二条城で、在京の重臣にその決意を伝えている絵です。この絵は原画が、称徳記念絵画館にあり、その写真が明治神宮に展示されています。生で見るとその絵の大きさに圧倒されます。

 

大政奉還の翌日、天皇は大政奉還を勅許し天皇に政権が復したことから、戦前は西暦でのこの日、11月10日が特別な日として、天皇に関する行事が行われる日となっていました。

 

大政奉還の前年には孝明天皇が崩御されており、即位された明治天皇はこの時満16歳になったばかりで大政奉還を迎えています。

 

ということは、つまり東京が東の京に奠都してからも153年です。慶応四年七月十七日(1868年9月3日)に江戸が京都との東西両京と定められ、東京と改称されました。そしてその翌年九月に元号が明治に改元され、十月十三日に明治天皇が東京に入り、明治二年(1869年)に政府は京都から東京に移されました。

 

今では大阪都構想の現実がばれていますが、そもそも日本においては天皇陛下がいらっしゃるところが都であり、遷都(都を遷すこと)は行われていないところから京都と東京が都であって、実際に現在いらっしゃる東京と京都だけ都がついています。どのような立派な案でも(内容の是非はここでは問いません)、大阪都という名称を使うのは日本人としての教養に欠け過ぎて異常です。そんな政策が良いものであるはずがありません。とはいえ、そうしたことをきちんと教育で教えていないことにも問題があって騙される人も出てきます。政治家がそうした案を出すからには勉強が必要であり、政治家としての資質に欠けていたことがよくわかります。

 

日本の近代は激動の時代でもありますが、大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにありました。これを坂本龍馬が大政奉還論として説いたことは坂本龍馬好きの多い現在有名です。

 

 

しかし徳川家が武家の棟梁であるまま次の政治体制でも中心になることを不服として、薩長を中心とする王政復古へ向かっていくこととなります。しかし、いずれにせよ変わりゆく世界の国際情勢の中で、危機感を感じていたからこそ時代が変わっていき、そうした中で我が国存続の危機を感じた志士達が新しい体制で強い国造りをしようとしたことに変わりはありません。

 

私達は歴史教育で、こうしたことをきちんと学んでいませんが、大政奉還の慶喜の奏上文にはそうしたことが表れています。

 

大政奉還の奏上文の一部の現代語訳(ウィキペディアより)

陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元の乱・平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。以上、本件について謹んで奏上いたします。

 

 

幕末明治の志士達は、激動の時代の中で功罪が多くありました。しかし、自分達で学び経験しその知恵を蓄積していったことが後の日本の礎となったことは確かです。

 

そうした先人達のおかげで、現代の私達は植民地に陥ることもなく現在の繁栄を享受しています。

 

江戸時代以降のアジアへの欧州列強侵略図

 

 

 

先人達には感謝しかありません。

 

大川周明の「世界史」を読むとその半分が欧州の植民史の内容となっています。戦前の日本人の共通認識を私達も共通に持つべきだと思います。

 

ところで五代友厚を知って、五代友厚的視点でこの大政奉還を見直すと、実は船中八策は、坂本龍馬というよりも横井小楠をはじめ当時の先進的な知識人の考えていた公約数的提案が、大政奉還や議会開設、開国しての殖産興業、憲法制定であり、幕府側でも政権を朝廷に戻す意見が出て、それ以前に議論されていたことがみえてきました。

 

将軍慶喜が二条城に在京各藩重臣を集めて「大政奉還」について意見を求めたその時、薩摩藩の小松帯刀は慶喜に即時上奏を求めたということが徳川慶喜の「昔夢会筆記」にあるそうです。つまり上記の絵画の時です。土佐の後藤象二郎は小松の弁論に感心し、「小松氏は貴人に対する談論至極上手なり」と振り返り、他の藩の重臣はあまり発言がなかったと語っているそうです。

 

慶喜は翌十四日に大政奉還を朝廷に願い出、翌十五日勅許されます。慶喜はのちに「御書付が出た。それは小松(帯刀)の言った通りのものだった。」と回顧し、大政奉還勅許について語っています。また「大日本維新資料稿本」には、「(大政奉還は)全く薩(摩)の主謀にて、土(佐)藩を先立に使い侯事」「名は王政すれども、実は薩(摩)政、土(佐)政、又は小松政、浪士政とも申すべき歟(か)」といった京都の世評がみられたそうです。幕府内部でも朝廷内でもいかに小松の影響力が評価されていたかが知れる記述です。同時代の人々は、「大政奉還」について慶喜の英断とか、龍馬の功績、とは思っておらず、小松帯刀(と薩摩)が後藤(土佐)を使って筋書き通りに進めたと認識していた証左である、と『五代友厚 明治産業維新を始めた志士(さむらい)』に書かれています。

 

小松帯刀は五代友厚と同年の生まれですが、五代よりも早く働き盛りの34歳で病のため亡くなっているためあまり知られていませんが、幕末維新の時代その存在が大きかったことが幕末を知るごとに浮かび上がります。五代友厚が渋沢栄一に隠れてしまっているように、小松帯刀も若くして亡くなったがために、多くの志士の陰に隠れてしまっているのです。小松は五代とは子供の頃からの親交があり、薩英戦争後、薩摩藩士に命を狙われるようになってしまった五代友厚の復帰が早かったのも家老である小松帯刀の存在が大きかったでしょう。長崎に隠れていた五代への資金援助もしています。そして、この時五代が藩に赦免を求めると同時に提出したのが、五代才助(友厚)上申書といわれるものですが、それが藩のその後の指針になったであろうことはその内容をみればわかります。つまり、大政奉還を主導したと当時言われていた小松(帯刀)の後ろに五代友厚がいたということです。

 

五代才助上申書とは、開国による富国強兵の方法論を提示し、留学費用の捻出方法や購入する軍備や機械などについても細かく言及したものです。

 

この序論では「五洲(五大陸)乱れて麻の如し、和すれば則ち盟約して貿易に通じ、和せざれば則ち兵を交えて互いにその国を襲い、奪呑す(収奪し併合する)」と世界情勢を分析し、続いて日本国内の状況を「勤王攘夷を唱え、天下に周旋、同志を集め自国の政を掌握する様大言を吐き、愚民を欺迷(ぎめい:あざむき・だまし)し、その上口演にのみ走り、浪士共増長いたし、攘夷の功業不成を知らず(攘夷は不可能)、国政を妨げ、反て内外の大乱を醸し出し、自滅を招く」と嘆き、「至愚」と批判。彼我の技術力の差と、軍事力に対する蒙昧さを気付かせてくれた薩英戦争を「天幸」とまで言っています。

そして、上海を実地に見分した経験や、あるいはグラバーら英国商人らから得た知識・情報を基に彼なりのビジョンを示し具体的な方策を描いています。

大きく三段階に分けると第一に日本からの輸出(外貨獲得法)、次が輸入(機械や武器・艦船などの耐久財)、最後が視察団や留学生の派遣(科学技術の取得・育成方法)です。

 

要約すると以下のように多岐に及んでいます。

①日本の産物(米や茶など商品作物)を上海や香港など大陸へ貿易し利益をえる事

②砂糖精製の大型機械を購入し、それによって砂糖生産・貿易を図る事

③英仏など先進国への留学生の派遣(運賃や滞在経費なども詳述)

④これらの利益によって軍艦購入をする事

⑤新式大砲(アームストロング砲)の購入と武器開発

⑥銀銭製造(貨幣鋳造)機会の導入

⑦農業耕作機器、農業用ポンプの購入

⑧銃砲用の火薬製造機購入

 

こうした五代の上申書を読むとその後の明治の「殖産興業」策がいかに五代の想定に入っていたかがうかがい知れますし、明治政府を牽引した元薩摩藩士にこうしたしっかりとした策があったからこそ明治政府を牽引できたのだとも考えられるのです。

 

そして、薩英戦争後、島津久光から全幅の信頼をおかれた家老の小松や側役の大久保利通らが、戦前の五代友厚や行動を共にした松木弘安の主張が正しかったことを理解し、彼らが「藩にとって有用欠くべからず人材である」と理解していたからこそ、この上申書提出後、イギリスの捕虜から横浜で解放された後、薩摩藩士から命を狙われ隠れていた二人の帰藩が許されたわけです。しかし、先進的過ぎてこれが理解できない多くの惣難獣がたくさん薩摩にはいたのですけれども。

 

いずれにしても、現在坂本龍馬の功績とされていることは、小説などにより同時代の志士の功績が集約されている面が多くあることを頭の奥においておくのは大事だと思います。司馬遼太郎もそういう意味をこめて「竜馬がゆく」という小説タイトルにしたといいます。でもこの本を好きな人、熱く語ってそれを聴かない人がいるんですよね・・・。

 

 

三浦春馬主演で五代友厚を描いた「天外者」。これも映画という限られた時間に要約した物語となっていますが、その想いは感動ものです。

 

 

 

 

 

 

 

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