本日は旧暦では11月15日ですが、明治五年十一月十五日(1872年12月15日)は紀元節が制定された日です。なお、この年改暦の布告があり、明治五年は12月2日で終了し、新暦へと変わって明治6年となった年でもあります。

 

 

森淸人御著書「建國の正史」には、こう書かれています。

 

紀元節についてのべる前に、まづ「紀元」そのものについて考へてみよう。

 

紀元といふのは、年數起算の第一年設定することで、歴史上の年數を起算する基準を設けることをいふ。悠久の時には、始めもなく終わりもない。過去にさかのぼつても無限であり、奬來も亦無窮である。

 

時をはかる單位には、年・月・日・時・分・秒等の稱があつて、人間の生活はこれを基本として行はれてゐるが、人間の長い歴史的年數を数へるためには、その計算の基準となる第一年がなければならぬ。ところが無始から無終へつづく時には、自然現象的の第一年といふものはない。そこで人爲的に、年數計算の基準となるところの第一年を設定する必要が生じてくる。でなければ時の觀念はあつても、年數の計算はできぬからである。かくて考へられたのが紀元で、わが神武紀元、西洋のキリスト紀元、回教徒のヘジラ紀元等はこれである。

 

さて、日本の紀元を定めるとなると、誰が考へても神武天皇の即位元年を第一年とするのが、一番自然な考へ方であろう。この考へ方にもとづいて、神武天皇即位の年をもつて紀元元年とされたのは、明治五年十一月十五日で、同年二十五日にその奉告祭が行はれた。更に同月二十三日、正院布告をもつて「新曆一月二十九日は神武天皇御即位紀元の日に相當するに付、毎年御祭典・御遙拜あらせらるる故に、上下一同遙拜すべき旨」が仰せ出され、ついで翌六年三月七日、神武天皇即位の日を紀元節と稱する旨が仰せ出されて、ここにはじめて紀元節が確定したのである。

 

しかし、一般國民が、二月十一日を紀元節として奉祝したのは、その翌年の明治七年の紀元節からであつた。

 

曆が在來の太陰曆から太陽曆に改まつたのは、明治六年一月一日からであつた。そしてこの年の正月元旦は、太陽曆の一月二十九日に當り、こうした計算で行くと毎年紀元説が變わることになつて不都合が起るので、明治七年から二千五百三十五年の昔にさかのぼり、神武即位元年辛酉の年正月元旦を太陽曆に換算すると、二月十一日となるので、この日を以て不變の紀元節と定められたのである。

 

いふまでもなくこの二月十一日は、神武天皇が大和の國の畝傍の橿原の宮において即位された日で、これについては日本書紀卷三に「辛酉の年春正月庚辰の朔(ついたち)、天皇橿原の宮において帝位に即きたまふ。この年を天皇の元年となす」とみえている。

 

以上

 

明治になり、国民全体に世界が開けた時に、自己認識として国の認識をしっかりさせる必要が生じ我が国の正史から国の始まりを誰にもわかるようにしたのが紀元節です。

 

紀元は国の大元であるから、独立国としては当たり前のことで、他国の紀元を奉ずるのはその国、または文化への服属を意味することとなります。だからこそ日本では、紀元節という言葉は戦後なくされましたが、建国記念日はありますし、元号も残しています。西暦は国際基準としては必要ですが、我国には元号も必要不可欠なのです。

 

紀元がいかに重要かは、安政五年(1858年)の六月にアメリカとの間で結ばれた安政条約の米国代表使節の日付をみると一目瞭然です。この当時まだアメリカは独立後82年しか経っていませんでしたが、そこには西暦1858年の記載とともに「亜米利加合衆国独立の八十三年七月二十九日」と記されているのです。*つまり、重要な国際条約には西暦と併記してアメリカの紀年を記しており、いかに自国にとって紀年が神聖であるかを示しています。

*紀元の数え方は、始まりの年を0年ではなく1年として数える。つまり元年です。令和も元年から始まりました。

 

アメリカが当時たった83年の紀元でも神聖視し重要な文書に記しているのに、二千年以上の歴史を誇る我が国が、我が国の紀元をないがしろにするなど考えられないことです。

 

日本の紀元は現在2683年、建国記念日より2684年となります。つまり17年後は紀元2700年という記念すべき年となります。この設定については正しくないとか、こじつけとか色々といわれる人がいますが、日本がいつからか始まったのは事実であり、どうしてもその日が信じられないのであれば、それこそがその日が明確にわからないほど古く続いている国であることを示しているともいえるかと思います。そしてその日を形としてあらわしたのが日本の紀元節であると。だって、いつからか始まって続いているのが我が国であることは確かな事実なのですから。

 

建国の物語

 

 

「建國の正史」には記紀を読んで生じる疑問の答えが明快に書かれています。なかなか手に入らない本だと思いますが、多くの人に読んで欲しい本の一つです。冊子のような薄い本ですが、一時古本検索すると1万円以上で出てきたりして驚かされました。(現在は二千円台に下がりました)私は版元からタダ同然の値段で買うことができてラッキーでした。あまりにも安かったので翌日余計に買い求め、ある史学者に進呈したほどです。(これはイベントの特別価格です。)なお、皇學館大学の学生とある講演会で出会った時ちょうどこの本をいつも持ち歩いていた時期で、見せたところ大学図書館にたくさんあると言っていました。流石皇學館です。ということは國學院大學にもたくさんあるかもしれません。学生さんにはしっかり読んでほしいと思います。

 

 

 

橿原神宮の南門には大きく紀元が書かれています。下記映像では2:00頃に登場します。私が初めてお参りしたのは竹田研究会の奈良研修でこの時初めて行った場所、初めて知った場所がたくさんあったのですがその一つがこの橿原神宮でした。下記映像は神武天皇陵から始まりますがセットでお参りしたい神社です。

 

ところでこのブログでは、何度か満月の日は何かをする日として選ばれてきたと書いていますが、この紀元節制定においても満月の日が選ばれています。旧暦では、暦と月の満ち欠けが一致しています。つまり朔日(1日)は新月であり、15日が満月であるということです。とはいえ実際の月の満ち欠けとはずれが生じていることもあります。しかしそれでも1日と15日が、それぞれ新月前後、満月前後であるのはまちがいありません。それを知ってから、歴史の出来事を見る目が変わってきました。そしてこの紀元節制定の日について、実際の満月とのずれがあったのか、検索してみたところこの日は実際にも満月の日であったようです。そう知ってみると、この制定の日を新月の日、つまり1日に制定したほうが良かったのではないか、と考えるのです。というのも満月の日に制定したのではだんだん欠けていってしまいますが、1日に制定すればどんどん満ちていくからです。制定の日が選ばれた時この満月が意識されたのか堂かは定かではありませんが、当時の常識として15日が満月の日であることは誰もが知っていたはずです。ただし、明治政府は新しい組織であったこともあり、中枢にいた人たちが、これまで長く中枢にいた人たちとは変わってしまっただろうということから考えると、ただたまたまこの日に制定したということもあるのかもしれません。いずれにしても、紀元節について色々と言われてしまうというのは、こうした制定日の選択によるのかもしれないとも思うのです。

 

 

 

ちなみに、本日の旧暦15日は9:33が満月の時となっています。

 

ところで、旧暦11月15日といえば、みんな大好き坂本龍馬の日でもあります。つまり日本のために奔走した龍馬の日に、日本の紀元節の制定が決まったわけです。

 

幕末の志士人気ナンバーワンともいえる坂本龍馬は天保六年十一月十五日(1836年1月3日)に誕生しています。この天保六年とは、幕末生まれの有名人の成年として特筆すべき年ともいわれる年で、この年生まれには、天璋院篤姫、土方歳三、松平容保、井上馨、五代友厚などがいます。

 

 

私はこのブログで、作られ過ぎた坂本竜馬像、つまり司馬史観が好きではないと何度か書いてきましたが、坂本龍馬が幕末に活躍したのだろうということは否定できませんし、その勉強熱心さや日本中を駆け巡った行動力や先進性は凄いし、だからこそ暗殺された惜しい人物であったのだとも考えています。そして、残された手紙や和歌などから垣間見れる人間味あふれる龍馬像は本当に魅力的だと思っています。魅力的であるからこそ、小説の題材として取り上げられ、その魅力が増し増しになってしまったのでしょう。

 

 

そしてその龍馬が暗殺された日、それも旧暦でいう本日となります。龍馬は旧暦では生没同一となり慶應三年十一月十五日(1867年12月10日)に亡くなりました。

 

五代友厚を描いた映画『天外者』には主要登場人物として坂本龍馬が登場しますが、この映画での龍馬暗殺シーンの開始は満月から始まります。

 

今はネットで幕末の満月も確認できます。この日、新暦での12月10日の満月度は98%で翌日が満月となっていますから、ほぼ満月といっていいでしょう。1836年分はありませんでしたが、幕末頃の日本の暦は世界一の精度だったといいますから、ほぼ満月で間違いないことかと思います。(それなのに西洋に日和って新暦に変えてしまったという・・・。)

 

 

つまり、坂本龍馬は満月に生まれ、満月に亡くなった志士だったということです。満月にここまでかかわった生涯というのは、その後の龍馬の人気を暗示しているような気がしないでもありません。

 

わ わ ゆ わ 世

れ が わ れ の

の な ば を 人

み す い な は

ぞ こ  え  に

し と         と

る は        も

 

龍馬の有名な一句、縦書きにしてみました(ずれてますけど・・・)。

 

私が心惹かれるた一句はこちら

 

ま 独 か け 人

す な わ ふ 心

鏡 げ る や

哉 き 世 き

  の に の

       ふ

       と

 

 

京都霊山護國神社には龍馬と中岡慎太郎のお墓があり、新暦11月15日に龍馬祭が行われています。

 

 

岐阜県には平成に龍馬神社では創建されています。例大祭は新暦の12月10日に行っていましたが、平日になることもあるため、現在は11月3日の文化の日に行っています。

 

 

招魂社の始まりは、光格天皇の御代に創建された霊明神社だったそうです。それが後に靖国神社をはじめとする護国神社へと変わっていったわけです。

 

 

志士を祀ることからはじまった招魂社が東京に合祀され、後に靖國神社へと名前が変わりました。

 

 

以前、お参りした時、空に出現した雲の龍

 

名前に馬がつく龍馬は、きっと龍も馬も好きだったんじゃないかと思います。もしかしたら上手くいくという言葉が座右の銘だったかもしれないなあ、なんて想像します。

 

 

 

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