第百十九代光格(こうかく)天皇は江戸時代の天皇です。傍系から皇位を継いだ最後の天皇であり、令和の御代替わりがあるまでは、最後に譲位された天皇でもありました。

 

御父は閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)、東山天皇の曾孫です。御母は岩室磐代(いわむろ/いわしろ とめ)。


御名は兼仁(ともひと)、祐宮(さちのみや)。


明和八年(1771年)生。


在位、安永八年(1780年)から文化十四年(1817年)。


第百十八代後桃園天皇は二十二歳の若さで崩御し、その年に生まれた皇女しかいませんでした。そのため急遽、閑院宮典仁親王の第六皇子祐宮(後に兼仁)が養子に迎えられて九歳で皇位を継ぎました。

 

父は閑院宮家の二代目にあたり、光格天皇の誕生は東山天皇の願いが実を結んだ結果でした。東山天皇の遺詔は、第六皇子の直仁親王が新宮家を創設することでした。この頃、天皇の子女は天皇位に就かない限り僧侶か尼になるのが常道だったのです。

 

新井白石の宮家を増やせという建白もあり、閑院宮家は東山天皇が崩御された翌年創立され、直仁親王が入りました。その孫にあたるのが光格天皇なのです。


新井白石は「徳川家でも血筋が絶えそうになったことは幾度かあるが、朝廷も同じである。なるべく宮家を増やして断絶の危惧をなくすべきである。儲君の他は皇子は僧とし、姫君は尼とするのは人情に背くものだ」としたのです。後に白石は、自伝の中でこのことを振り返り「この国に生まれた身として、”私は皇室の恩に報いることができた”と思える第一の事業でした」と「折たく柴の記」に書いたといいます。徳川家に仕えている学者がこう記している、日本とはそういう国なのだと改めて考えさせられます。

 

御製から考える日本 光格天皇 宮家の意義を考える

 

 

 

 

二十四歳の時に後桃園天皇の皇女欣子(よしこ)内親王を皇后としました。


円満なお一人柄で、質素を好んで飾る事を嫌い、民のための仁徳を旨としました。


天明二年(1782年)から天明八年(1787年)に発生した天明の大飢饉は困窮した人間があふれ、大規模なうち壊しも各地で起こりました。この惨状を知った光格天皇は、ただ平安を祈るだけでなく、幕府に申し入れて民衆の救済をはかりました。これは、江戸幕府創設以来幕府に委ねられていた内政に初めて関与し、幕府も従った出来事として大きな意味のあることでした。

 

なお天明の飢饉の時には御所に助けを求めてお祈りをしにくる人があふれ、10日後には7万人集まったといわれています。門からお賽銭を投げ入れる人もいたといい「御所千度参り」といわれましたから、祈る場所としての御所の認知があったと思われます。この時光格天皇は16歳でしたが、教育にあたられていた後桜町上皇が集まった民衆に和リンゴ3万個を配り、それにならった貴族もお茶や握り飯を配り始めたそうです。そうした中で若い天皇が幕府に申し入れをし、幕府も従ったわけです。ここから朝廷と幕府の立場が逆転していきますから、この出来事はその後の光格天皇ご自身にも大きな影響を与えたでしょう。

 

光格天皇の時代には、多くの儀式や祭祀の復興が実現しました。三百五十年以上途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭も再興したのです。

 

在位三十九年にて、第四皇子の恵仁(あやひと)親王へ譲位(仁孝天皇)。


御在位中には、筑前の国志賀島で、「漢委奴国王」の金印が発見されました。十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」が書かれ、東洲斎写楽が出現し10か月間活動し姿を消したのもこの頃です。本居宣長が35年かけた古事記伝を著し、伊能忠敬が幕府の命令を受け全国の測量を開始し「大日本沿海興地全図」を完成させました。またロシア使節のラスクマンが来日し、大黒屋光太夫ら漂流者を引渡しました。間宮林蔵は樺太を探検し樺太が島であることを発見しました。

 

そしてフェートン号事件が長崎で起きました。これはオランダ拿捕のためオランダ船を偽って来航したイギリス船フェートン号が、長崎港内の捜索を行い、薪水や食料の提供を要求したもので供給がない場合は和船を焼き払うと恐喝してきた完全な海賊行為でした。反撃兵力のない長崎奉行は要求を受け入れましたが、手持ちの兵力もなくむざむざと相手に応じざるをえなかったことが長崎湾警備を担当する鍋島藩に屈辱として残り、近代化に尽力し明治維新の際に大きな力を持つ要因となりました。

 

その後、松前藩がロシア船ディアナ号を国後島で拿捕し船長のゴローニンらを捕らえ抑留するゴロ―ニン事件が起き、後にその報復として、国後島沖で高田屋嘉兵衛が捕らえられたため、ディアナ号乗組員は解放されましたが、時代の変化を感じさせる事件が頻発し始めた時代でした。

 

光格天皇が詠んだという御製を紹介します。以前、出典を探すため国会図書館に通ったのですが見つけられませんでしたが、こんな時代だったらこのような歌を詠まれたかもしれないと思わせる歌です。

 

神様の国に生まれて神様の

道がいやなら外国(とつくに)へ行け

 

こうした外国からの危機感と国際情勢が仁考天皇、孝明天皇と引き継がれていったのではないでしょうか?

 

一方でこんな御製も詠まれています。

 

敷島のやまと錦に織りてこそ

からくれないの色もはえなれ

 

この意味は、「織物は日本らしい華麗な織物に仕上げることが大切です。そういう基礎があればこそ、外国から来た紅(くれない)の色も、はじめて生きてくるのです」というものです。(「日本とは和歌」より)

 

つまり、光格天皇は、ただやみくもに外から来るものを拒んでいるわけではないのです。これは古来から、稀人を歓迎する国であったことを考えればわかることです。我が国は渡来人を歓迎してきた国であり、そうすることにより古いものと新しいものが融合してきた国でもあるのです。

 

天保十一年(1840年)に七十歳で崩御。


天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、・・・質素を尊ばれて修飾を好まれず,御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶に及ぶ」という功績を称えて諡号をおくる意見が出ました。そこで千年近く途絶えていた漢風諡号と900年近く途絶えていた天皇号が復活され「光格天皇」と諡されました。


なお「光」の字で始まる号は、皇統の流れが変わった時につけられる字となっており、天武天皇系から天智天皇系になった時の光仁天皇、文徳天皇系からその弟の系となった光孝天皇、北朝の始まり光厳天皇、またその弟の系統となられた光明天皇がいらっしゃいます。

 

光格天皇の皇孫にあたるのが孝明天皇、曾孫が明治天皇であり、近代天皇へ移行する下地をつくったと言われています。

 

御陵は後月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。

 

1474406161846.jpg

 

 

仁考天皇は、諡号が決まると陵前で諡号の奉告をされました。記録ではこの時初めて後月輪山陵とあるといいます。山稜とはいえ他の江戸時代の歴代天皇陵と同じく石製の九重塔で、泉涌寺御塔というのみで特に陵名は定まっていませんでした。しかし光格天皇陵が後月輪山陵と称され、仁考天皇が崩御後その陵は、元号に因んで弘化廟と定められ弘化山稜とも呼ばれました。しかし明治12年、年号を陵名とした例はないことから、父天皇と同じく後月輪陵となりました。また後桃園天皇に至る江戸時代の天皇・皇后陵には陵号がなく、同じ泉涌寺内の四条天皇陵は月輪陵であり、光格天皇陵が後月輪陵であることから、後桃園天皇までの陵も月輪陵と称されることとなりました。

1474406961034.jpg

 

1474406960489.jpg

 

さて、最初にあげた光格天皇の御御影は、御代替わりの時期に国立公文書館で行われた「江戸時代の天皇」展で撮影OKだった御御影の絵の写真の写真です。今回、本物の絵はありませんでしたが、江戸時代の御歴代の天皇の御御影絵の写真が置かれていました(女性天皇は除く)。それで気づいて今更ながら驚いたことを以前ここでも書きましたが、なにに驚いたのか?

 

この映像だけではわからないこととは・・・↓

 

実は、光格天皇の御御影が現在の上皇陛下とそっくりなのです。今まで、光格天皇の御御影は何度も拝見していましたが、書物の小さい絵ではわかりませんでした。しかし、大きい絵で気づいたのです。もちろん血の繋がりがあるわけですから似ていても不思議でもなんでもありません。明治天皇から今上陛下まで、お顔立ちは変化していますがやはり血の繋がりを感じさせられます。しかし、仁考天皇から孝明天皇、明治天皇とだんだん光格天皇のお顔立ちとは違ってきていました。実際、お若いころの上皇陛下のお顔立ちは光格天皇のお顔立ちとそっくりなわけではありません。ところが現在のお顔立ちが光格天皇の御御影とそっくりになっている。血統の不思議を感じさせられました。

 

そして、そう気づいてその後、もう一度御御影を見直しましたら、それまでは似ているとあまり思えなかった御歴代の御御影が実はよく似ていることがわかったのです。小さい絵などでは確認しづらかったので、ここで確認できたのは貴重な体験でした。江戸時代前あたりから、しっかりと描かれている御御影がありますので、機会がありましたらご確認いただければと思います。また、未だに明治天皇すり替え説を信じている人がいますが、こうした御御影を見てみれば、馬鹿らしくなるのではないかと思います。年の変化とともに生まれる相貌が何代も前の祖先と似ているというのは、こうした御御影が残っているからこそ確認できたこと。それ以前に、天皇すり替え説そのものが天皇について知ると最初から馬鹿らしいもので、現在天皇について多くの人が知らないことにつけこんで生まれているものです。そしてこの肖像画はそうした説の馬鹿らしさを補強しています。

 

ここで何度も紹介している「天皇家百五十年の戦い」を読むと、明治以降の天皇の戦いがわかりますがそこにはもちろん上皇陛下もいらっしゃいます。こうしたことを知って、光格天皇を知るとそのお姿は重なってきます。御歴代の天皇は色んなことと戦ってきたわけですがその一つに宮中祭祀を復活させ維持し護ることがありました。明治期に宮中祭祀が整備されたのはこうしたことの成果だったといえますが、戦後どんどん縮小されるようになり、昭和天皇、上皇陛下はそうならないようにしてきました。しかし、令和の御代替わりでは世界から注目される中で省略されたことがいくつもあったのは皆さんご存じのとおりです。歴史は何度も繰り返しているのです。しかしその古来から続く(整備された)祭祀が、世界中から注目され日本という国が見直される要因ともなっていることを考えたほうがいいのではないかと思います。

 

 

参照:「宮中祭祀」

「歴代天皇事典」
「天皇のすべて」

「日本とは和歌」
他 

 

上記動画の松浦先生が出版された御著書

 

光格天皇の御製さながらに、日本国内の外国勢力に危機感を抱いていたとされる三浦春馬さんの告知ではなく気持ちを書いたと言われる最後のツィート。

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎