本日の旧暦10月26日は、安和元年十月二十六日(968年11月29日)冷泉天皇の第一皇子師貞親王が誕生された日でもあります。

 

師貞親王は後に17歳で即位され、花山天皇となりました。しかし即位された時有力な外戚がなく、一年八カ月後、孫である皇太子懐仁(やすひと)親王の即位を早めたい藤原兼家の画策により、寵愛した女御の薨去を悲しまれていた花山天皇は出家のため退位をしてしまいました。兼家の息子道兼が一緒に出家をしようと勧めたのです。しかし道兼は天皇の出家を見届けて出奔し天皇は欺かれていたことを知りました。


『大鏡』にはこの晩の事が兼家、道兼父子の姦策として書かれています。この時は有明の月がとてもきれいだったと書かれていることから、明け方のことでありました。

 

天皇は、澄み渡った月光を気が引けるように思召して躊躇していらっしゃるうちに、月の表にむら雲がかかって、少し暗くなっていきましたので、「これで私の出家の望みは成就するのだなあ」と仰せられてお歩き出しなされましたが・・・・

 

しかし天皇は肌身離さず繰り返しごらんになられていた女御の手紙を戻りに行こうとするなど迷いがあったのを、道兼が空泣きをして外に連れ出したのです。そしてこの時その道筋にあったのが安倍晴明の家で、家の前を通りかかった時に晴明が「天皇が御退位になると占われる天変があったがもう退位が実現してしまったとみえる、奏上しよう」と言っていたことを天皇御自身が聞いていたと書かれています。

 

そして天皇が剃髪なされた後に道兼が出奔し、天皇は騙されたことを知り慟哭されたとも書かれています。


傷心の花山上皇は、その後観音霊場三十三か所の宝印を石棺に納めたという伝承があった中山寺でその宝印を探し出され、紀伊熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼され、修行を進められて大きな法力を身につけたといわれます。

 

そしてこの観音巡礼が、現在も西国三十三所巡礼として継承されています。

上記HPより

養老2年(718)、大和長谷寺の開山徳道上人は、病にかかって仮死状態になった際、冥土で閻魔大王と出会います。閻魔大王は、世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けました。現世に戻った徳道上人は、閻魔大王より選ばれた三十三の観音霊場の礎を築かれましたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納められました。

それから約270年後、途絶えていた観音巡礼が、花山法皇によって再興されます。花山法皇は、先帝円融天皇より帝位を譲られ、第65代花山天皇となられますが、わずか2年で皇位を退き、19歳の若さで法皇となられました。比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人を伴い那智山で修行。観音霊場を巡拝され、西国三十三所観音巡礼を再興されました。

 

その後晩年に帰京されるまでの十数年間、隠棲生活を送られた花山院があり、その名前が崩御の後追号されました。ここは今では花山院菩提寺として西国三十三所巡礼の番外霊場となっています。

 

西国三十三所巡礼は、傷心の花山天皇から始まったことだったのです。日本には、天皇に始まることがたくさんありますが、その一つが西国巡礼というわけです。

 

『大鏡』には平安時代の天皇のことがたくさん書かれています。

 

天皇でさえも後ろ盾がないと朝廷の中でその位置はあやういものでした。花山天皇が出家したのは満年齢で秋に18歳になる年の夏のこと、つまりこの時17歳でした。17歳で身近に味方となる人がいない中、天皇であられるということは、とても心細いものだったのではないでしょうか。御歴代の天皇を知ると、こうした幼い天皇が何人か登場しており、孤高の存在として悲壮感漂うことが多いです。

 

 

 

 

孤高の戦いで思い浮かべてしまう方に三浦春馬さんもいます。今では日本のために闘っていたことが知られてきています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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