第四十七代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。


御父、舎人親王の第七子、御母は当麻山背(たいまのやましろ)。また御祖父は天武天皇です。3年前は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、舎人親王は日本書記の編集の総裁をしていた皇子です。

 

 

 

御名は大炊(おおい)。

 

天平五年(733年)生。


在位、天平宝字二年(758年)から天平宝字八年(764年)。


第四十六代孝謙天皇は独身の女帝でしたので、皇位継承が問題でした。聖武上皇の遺詔により皇太子となった道祖王(ふなどおう)(天武天皇の孫)は、服喪中にふしだらであったという理由で廃太子となったのです。そこで天皇が誰を皇太子にすべきか群臣に尋ねると、孝謙天皇の母の光明皇后を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂が推したのが大炊王でした。孝謙天皇の仲麻呂への信頼は厚かったので、大炊王は皇太子となったのです。

 

そして翌年、孝謙天皇の譲位を受けて二十六歳で即位されました。


即位後に後ろ盾になったのはもちろん藤原仲麻呂でした。上皇は仲麻呂に「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名も送っています。


しかし光明皇后崩御の後、平城京の改造のため孝謙上皇と淳仁天皇が保良宮に移った時、上皇が僧の道鏡と出会い上皇の信任を得たことで状況が変わってきます。

 

天皇が道鏡との関係を非難されたことで上皇と不仲になり、天皇は平城京へお戻りになり、上皇は出家して法華寺にお入りになられたのです。


そして上皇は再び執政権を握り、押勝は追いやられてしまいます。危機感を感じた押勝は謀反を起こしますが捕らえられ切られました。(恵美押勝の乱)

 

そして翌月には乱に加わらなかった淳仁天皇も捕らえられ廃帝(はいたい)にされ、淡路国に幽閉されるのです。上皇が天皇の権限を取り上げてしまわれた史上初の出来事であり、また廃したことも初めてのことでした。

孝謙上皇は重祚(称徳天皇)しました。


これにより、淳仁天皇は明治天皇に追号されるまで淡路廃帝、淡路公と呼ばれていました。

 

しかし、淡路の前天皇である淳仁天皇の元へ通う官人も多く、都でも天皇の復帰を計る勢力もあり危機感を抱かれた称徳天皇は警備の強化を命じます。そうした中、翌年、淳仁天皇は幽閉先から脱出しましたが捕らえられ、その翌日亡くなりました。そのため暗殺説もあります。


天平神護元年(765年)崩御。

 

この後、宇佐八幡宮の御神託の確認により、道鏡が皇位に就く危機を脱した後、称徳天皇は崩御され、光仁天皇へと皇位は継がれていくこととなります。

 

竹田学校の奈良時代編⑥道鏡の野望は、こうした時代の話です。淳仁天皇についても詳しく話されています。

 

六年後の光仁天皇の御世、天皇は僧侶六十人を派遣し、齋を設けてその魂を鎮められました。それからさらに六年後には陵は山稜(天皇の陵)とされました。


しかし歴代天皇に加えられたのは明治三年(1870年)のことでこの時追号もされたのです。

 

 

淳仁天皇の御世には、神武天皇から持統天皇までと元明・元正天皇の歴代の天皇へ漢風諡号が贈られています。現在私達が呼んでいるこの時代の天皇名は、この時贈られたものなのです。

 

また万葉集が編集された時期、つまり万葉の時代でもあります。(完成は宝亀十一年/780年頃)そのせっかく編纂された万葉集が歴史の中で埋もれてしまったのは、橘奈良麻呂の変に編者の大伴一族の多くが連座したからだといわれています。

 

それからこの当時あまりにも多くの難民が来るため、新羅からの難民に対し食料を与え希望者は帰国させよと詔されました。その翌年には帰国を希望しなかった新羅人一三一人を武蔵の国に移送させました。

 

ほんの六年ほどの御世でしたが、廃帝にされてからも復帰を望む者が多かったことから、人望が厚かったことが察せられます。また数少ない業績ではありますが漢風諡号はその後の天皇の号として残るものであり、三十三歳で崩御されたのは惜しまれることでした。


御陵は淡路陵、兵庫県南あわじ市賀集にあります。

 

孝謙天皇から称徳天皇時代には激しい皇位争いがありました。淳仁天皇はそうした中、皇位に就いたわけですが廃帝となりました。これも皇位争いの一つですが、こうしたことが繰り返されたため天武天皇系の有力な皇子がいなくなり、白羽の矢が指し示したのが天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)だったのです。しかし、それも新たな皇位争いの始まりと御霊鎮めの時代の始まりでした。そして、こうした皇位争いを生んだきっかけとなった女帝の誕生は、江戸時代まで避けられたのでした。また女帝であることが生み出す皇位の危うさが認識された時代でもあります。孝謙天皇(称徳天皇)の二人の異母姉妹は、一人は光仁天皇の皇后となりながら第二の孝謙天皇のような存在になるのを恐れられて、無実の罪で廃后、皇子の他戸親王ともども最後には暗殺されたとされます。そしてもう一人の不破内親王は、皇統争いに繋がる乱や呪詛、謀反に巻き込まれその最期の消息は不明となっており、皇統の近くにいるのがいかに危険であるかが目に見えてわかる時代でもあります。

 

現代の日本が、この時代と似通っているように思えてしかたないのは、次の世代の皇族の男子が一人だけだからであり、だからこそ天皇に近い女性皇族のその身の危険性を考えずにはいられないのです。それは皇室を離れても関係ありません。だからこそ、皇室を離れるときもその相手をきちんと選ばなければならないのです。不破内親王は天皇の娘だからこそ、その皇統の血から子供たちが色んな事に巻き込まれていったといえるからです。

 

 

参照:「歴代天皇で読む日本の正史」他

 

上記竹田学校の動画は、「天皇の国史」を手元に置いてご覧いただくとわかりやすいです。

 

私の「万葉集」は講談社文庫です。

他の本にない解釈が凄い「ねずさんの奇跡の国日本がわかる万葉集」

 

もうすぐ新嘗祭ですが、淳仁天皇が皇太子になられた年の新嘗祭後の豊明節会で詠まれた御歌が万葉集にあります。

 

天地(あめつち)を照らす日月(ひつき)の極(きはみ)無く

あるべきものを何をか思はむ

 

天地を照らす太陽や月のように、皇位は限りなく無窮であるはずのものを、何を考える必要があろうか。無窮であるはずの皇位でがあるが、「何をか思はむ」と言い聞かせるような御表現には、何かしら不安げな、くぐもった印象を受ける、と『歴代天皇の御製集』には書かれています。なにかしら、不安なものがあったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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