第九十二代伏見天皇は鎌倉時代朝廷が二つに分かれた頃の持明院統の天皇です。

御父、後深草天皇の第二皇子、御母は洞院愔子(いんし)。


諱は煕(ひろひと)。


文永二年(1265年)生。


在位は弘安十年(1287年)から永仁六年(1298年)。


後深草上皇は、後嵯峨上皇の崩御後治天の君になること(我が子が天皇になる)を願っていましたが叶わず、祈願や指の血による写経を行っていました。その為、治天の君となっていた大覚寺統の同母の弟である亀山上皇は円満な解決を幕府に求めました。


鎌倉幕府執権の北条時宗は、亀山上皇の猶子を後深草上皇の皇子である煕仁親王とし、皇太子に定めました。つまり今度は、自分の皇子に譲位できなくなったその時在位中の後宇多天皇に不満が募り、大覚寺統と持明院統の対立が深まっていきます。


そのためか即位三年後には、伏見天皇を暗殺しようと武士が宮中に乱入する暗殺未遂事件が起き、黒幕は亀山法王という噂も立ちました。しかし、持明院統の治天の君であり、亀山法王の同母兄である後深草法皇がこれをとりあわなかったため、決定的対立は避けられました。


伏見天皇は後深草上皇の院政がわずかな期間で終了したのち、積極的に親政を行いました。宮中制度の改革や訴訟機構の刷新をし、朝廷の政治的権威の回復に努めたのです。


また皇位継承に介入する鎌倉幕府に対しても強い主張を貫いた為、一番の側近である京極為兼が二度も流刑となりました。これは、伏見天皇の反幕的言動への牽制といわれています。

 

在位中には、後深草天皇の第六皇子で伏見天皇の異母弟の久明親王が鎌倉幕府第八代征夷大将軍に就任しました。第七代将軍だった後嵯峨天皇の孫である惟康親王は辞して帰京し出家されました。

 

この時代、天皇は10歳前後で即位し、20歳過ぎに譲位されることが多い時代でした。伏見天皇も順当に皇位が巡っていれば同様に父帝の後、即位となるはずでしたが、父の弟である亀山天皇、また次に亀山天皇の皇子であり従兄弟の後宇多天皇が続けて即位されたため、この時代には珍しく即位されたのが二十三歳、後深草天皇の院政が終了し自ら政務を執ったのが二十六歳、また後伏見天皇へ譲位されたのが三十四歳と成長過程に見合った人生を過ごされています。十一歳で皇太子となられていますから、感受性の強い時期を春宮として過ごしたことが人格形成に大きな影響をあたえたのではないかと思われます。

 

本柏(もとがしは)神のすごもにふりそそぎ

白酒黒酒(しろきくろき)のみきたてまつる

(本柏に浸した神酒を、神が召し上がるすごもにふりそそぎ、今年収穫されたばかりの白酒黒酒の神酒を神に捧げて感謝申し上げることだ。)

 

天皇即位の翌年にある新嘗祭は大嘗祭として、一代の天皇に一度きりの儀式となります。その時に、歌われたのが上記の歌です。持明院統と大覚寺統に皇統が二つに分かれたなか、自らが正統であるという意識が強かったといわれる伏見天皇ですから、より感慨が深かったのではないでしょうか。


伏見天皇は神を深く敬い、歌人としての才能も高く勅撰集や家集の歌集を残されています。歌の中では「あめつち」という言葉がお好きだったようですが、この言葉は天地開闢神話を意識したものとみられ、伏見天皇が常に皇統の正統性を意識していたことの表れとみられています。

 

四つのときあめつちをして受けゆけば

四方の形の背くしもなし

 

民やすく国治まりてあめつちの

受けやはらぐる心をぞしる

 

霞たち氷もとけぬあめつちの

心も春ををして受ければ

 

 

 

伏見天皇の御製(和歌)は、楽しく明るくさせられるものが多くあります。きっとご自身がとても明るい方だったのではないかと思います。もしかしたら伏見天皇暗殺未遂事件の際に、後深草法王が亀山法皇黒幕説をとりあわなかったのは、こうした伏見天皇の御心が反映されたものなのかもしれないと想像してしまいます。

 

永仁六年(1298年)、皇太子の胤仁(たねひと)親王に譲位(後伏見天皇)。後伏見、花園、両天皇時代に院政をとりましたが、正和二年(1313年)に出家して法皇となりました。


文保元年(1317年)崩御。2017年は崩御後七百年の式年祭の年に当たりました。

 

宮中では、神武天皇と先帝、その前三代の天皇、先后を除くすべての天皇・皇族は100年毎の式年祭以外は祭日当日のお祭りは省かれ、春季皇霊祭と秋季皇霊祭で一緒に祀られています。つまり2017年は伏見天皇の式年祭が当日行われた日であります。

 

2017年の上皇上皇后両陛下ご動静、宮内庁発表分は以下のようになっていました。

10月16日午前

陛下 伏見天皇七百年式年祭の儀(皇居・皇霊殿)

皇后陛下 式年祭の儀に当たり御遥拝・御慎み(御所)

 

なお持明院統の由来は伏見天皇が持明院殿に住んでいたことからそう呼ばれました。また、譲位後長く住まわれた洛南の離宮伏見殿にちなみ、伏見院と追号されました。


御陵は深草北陵、京都市伏見区深草坊町にあります。

 

 

 

昨日から神嘗祭の期間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎