第九十代亀山天皇は鎌倉時代に朝廷が二つに分かれた一因となった天皇です。


御父、後嵯峨天皇の第七皇子、御母は西園寺きつ(女偏に吉)子。同母の六歳違いの兄の後深草(ごふかくさ)天皇は先帝。また、後嵯峨天皇の第一皇子、異母兄の宗尊親王は鎌倉幕府の第六代将軍です。


諱は恒(つねひと)。


建長元年(1249年)生。


在位、正元元年(1259年)から文永十一年(1274年)。


恒仁親王が十一歳の時、後嵯峨上皇の意向で譲位させられた兄に代わり即位しました。そして院政を敷いていた後嵯峨上皇が崩御されるとご自分の皇子に譲位し(後宇多天皇)、治天の君として諸制度の改革を行い、徳政と評される社会改革にも取組みました。

 

在位中には、宗尊親王が25歳になられて将軍を廃され鎌倉から帰朝しました。後任には、宗尊親王の子、惟康王が親王宣下を受けられ三歳で第七代征夷大将軍に就任しました。また後に臣籍降下して源惟康となり後嵯峨源氏の祖となりました。


亀山上皇の院政中には二度の元冦があり、国難に殉ずる覚悟で伊勢神宮や石清水八幡宮に敵国調伏を祈願されたことが有名です。

御製から読み解く日本 国のためなら我が命をも 亀山上皇の思いとは


 

また文永一一年(一二七四)蒙古襲来により炎上した筥崎宮の社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた「敵国降伏」の御宸筆は有名で、現在楼門高く掲げられている額の文字は、文禄年間に小早川隆景が楼門を造営した時に、謹写拡大したものとのこと。

 

 

「敵国降伏」の意味は、武力によって敵を降伏させることではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら降伏するという我国の国柄が現れた言葉だということです。以下は、簡単ですが箱崎宮サイトでの簡潔な紹介です。

以前は、私がこの意味を知るきっかけとなった筥崎宮の権宮司田村邦明氏へのインタビューがネット上にあったのですが、そのページがなくなってしまいました。しかし、以下に動画がありますので、詳細はこちらでどうぞ。敵国降伏については9分過ぎから↓

 

「蒙古軍は二度とも暴風によって撤退したので、神風伝説ができあがったのです」というのは実は戦後の語り方のようで、武士達の働きにより一度目の元冦はほぼ撃退、また二度目の元冦も善戦の上に暴風がきて助けになったという風に明治までは語られてきたそうですから、それが史実に近いのではないでしょうか。そうした働きを神風といったのであって、風そのものをさしていたのではないのです。

 

そして、この時、白村江戦で負けた後、戦後復興と国防の両方に備えられた天智天皇が造らせた水城が600年後に役立った時でもありました。

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いずれにしても、亀山上皇の祈りが大きく後押しされたと考える人が多かったから、神風伝説も生まれたことは確かでしょう。なお、亀山上皇の事ばかりが取り上げられますが、この時後深草上皇も祈りを捧げられていたことが記録に残っています。国を護るという想いは同じなのです。

 

そして、二人の上皇が祈られていること、そしてもちろん幼い天皇も祈られていることを武士団は知っていたはずです。それは武士団の大きな励みとなっていたことでしょう。そうしたよりどころがある人は強いのです。

 

『日本史サイエンス』の著者は造船エンジニアリングであることから、蒙古軍船をCGで復元し、蒙古兵の兵力を検証し蒙古兵そのものが船酔いなどで弱っていたとしていますが、それは船に載せられる食料や軍馬、また排泄物の量まで推定して出されたもので、これまでにない科学的な分析となっています。

内容がうかがえる対談↓

 

博多には天皇の像で一番大きいのではないかと思われる亀山上皇銅像があり、大きさが6メートルあるそうです。
その、銅像の原型となったのは、筥崎宮にある亀山上皇尊像奉安殿(福岡指定文化財)の木造の像。これらは元寇に対し、「我が身をもって国難にかわらん」と敵国降伏の祈願をし、博多の安寧を祈願された亀山上皇を顕彰して明治時代に造られたもの。630年ほど経っても博多の人々は亀山上皇の御祈願の御恩を忘れていないのです。それは、そうした地勢に住む人々の心構えともいえるかもしれません。歴史は繰り返すものですから、あの時を忘れるな!という。

亀山上皇銅像とつつじ(福岡県東公園)

 

 

 

後宇多天皇の退位の後、皇位は後深草上皇の持明院統に移りました。これは鎌倉幕府の介入によるもので、亀山上皇は失意のあまり出家されました。こののち、亀山上皇側の大覚寺統との二つの朝廷となり、これが後に南北朝に繋がっていきます。兄弟の確執を産んでしまったのは、その父、後嵯峨上皇ですが、これが朝廷が二つに分かれる要因となっていくのです。


のちに、伏見天皇暗殺未遂事件が起こると、黒幕は亀山法皇であるとの噂が立ちましたが、この時は兄の後深草法王がこの主張を退け、持明院統と大覚寺統の決定的な対立は避けられました。ここは良い意味でも悪い意味でも同母兄弟の絆の表れだったと思います。


嘉元三年(1305年)崩御。

 

父の後嵯峨天皇が嵯峨野に建造した離宮の亀山殿を伝領しており、嵯峨の地を残された後嵯峨の後継者として亀山と遺詔しています。これは先に崩御された兄の加後号、嵯峨天皇の皇子であった仁明天皇の異称に意地をみせたのかもしれません。しかし、兄弟揃って崩御後もその号によって後継の正統性を主張したことは、その後も子孫が争い続ける禍根となったかもしれません。皇統が二分し後に南北朝にまで分かれる根深さが兄弟の天皇号からもうかがえるのです。

 

なお、亀山天皇系の大覚寺統と、後深草天皇系の持明院統で交互に皇統を継ぐという両統送立は、嵯峨天皇の頃に弟と皇子の両方の系統から交互に皇位継承したことを先例としたものです。後嵯峨天皇は遺詔しての追号となっていますので、このことを意識されており、後深草天皇、亀山天皇もそれに倣ったというのもあるかと思います。


御陵は亀山陵、京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町、天竜寺内にあります。

 

竹田恒泰氏の『天皇の国史』では、北条時宗と蒙古襲来、亀山天皇の祈りに約4頁を割いています。

 

『不合格教科書』においても3頁半割かれています。

参照

『歴代天皇で読む日本の正史』

『歴代天皇100話』

 

 

収穫の秋だからこそ確認したい↓

 

 

 

 

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