第四十代天武天皇は、古代飛鳥時代の天皇です。

 


天武天皇と鸕野讃良皇女(持統天皇)


御父は舒明天皇、御母は斉明天皇(皇極)、また天智天皇は同母兄となります。そして天智天皇の皇女でもあった妃の鸕野讚良が次に即位することとなります(持統天皇)。


舒明天皇三年(631年)生。ただし複数の説あり。


御名は大海人皇子。

 

和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。

 

母は二度天皇(重祚)になり、兄は乙巳の変を起こし、妃も天皇になりました。この飛鳥時代の天皇の中で大海人皇子の周りが一番目立つ存在かもしれません。そしてもちろんご本人が一番凄いことをやってのけています。長い皇室の中で、乱があって朝廷が変わったことは一度しかありません。そのただ一度をやってのけて即位された天皇です。つまり壬申の乱です。壬申の乱は天智天皇崩御後、その皇子であった大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子との戦いです。

 

 

2年前編纂1300年を迎えた『日本書紀』の巻のつくりは全三十巻中、神代が一から二巻、三巻が初代神武天皇、以降合計四十人の天皇を一人一巻としながらも何巻かは複数の天皇になっています。ところが天武天皇だけは二巻にまたがれてあり、しかも一巻まるごと壬申の乱となっているのです。それだけ日本書紀編纂当時一番重要な事件だったわけです。


とはいえ、壬申の乱の始まり、大海人皇子のご出発は徒歩で二十人あまりと日本書紀に書かれています。それがどんどん人数が増えていきしまいには数万になるのです。『日本書記』を読むと天智天皇は民に人気がなかったようで、それが表れている記述が多くて驚くのですが、大海人皇子はもしかしてその反対に人望が厚かったのかもしれません。

 

壬申の乱の後、二つの歌が詠まれましたが、その歌は二つとも天武天皇を神と称える歌です。神と言われるぐらい慕われた天皇だったということなのでしょう。

 

大王は神にし坐(ま)せば赤駒の匍匐(はらぼ)ふ田井(たゐ)を都となしつ


大王は神にし坐せば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都となしつ

 

前者は「天皇は神であらせられるから赤毛の馬がはって歩くような沼田もあっというまに都となされた」。

後者は「天皇は神であらせられるから水鳥の多く集まってさわいでいる沼地をたちまち都にされた」。

都とは飛鳥浄御原宮(あすかきみよはらのみや)です。

 

天智天皇と近江朝廷の政治に豪族たちは不満を募らせていたといいます。だからこそ、豪族は大海人皇子を支援し、大海人皇子も都を再び飛鳥に戻しました。人々は新しい都と新しい天皇へ熱い期待を寄せ、天武天皇を支持し、英雄視し、崇拝していく中で、天武天皇が神へと変化していった、そんな期待感があふれる歌です。そして天武天皇の命によって編纂され、崩御後の持統天皇時代に頒布された飛鳥浄御原令には、「現御神大八嶋国所知天皇(あきつみかみとおおやしまぐにしろしめすすめらみこと)」という呼称が定められています。これは「この世に人の姿をとって現れた神として日本国(大八嶋国)を統治なさる天皇」という意味です。

 

現人神(あらひとがみ)とは、この時代の人々が天武天皇を称え生まれた表現だったのです。天武天皇は称号を「天皇」と定めましたが、だからこそ天皇は現人神だと称えたのでしょう。

 

「現人神」というと天皇が神であるはずないとか勘違いをされる人も多いかもしれませんが、これは称えられた呼称であってなにも天皇が本当に神だと思わせるものではないことが、歴史を知るとわかってきます。初代神武天皇は神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)=やまとの国の神と呼ばれた男、という名前でしたが、天武天皇も神と呼ばれた大王(おおきみ)だったのです。神と呼ばれた男も神と呼ばれた人も、人であることに変わりありません。誰も人が人でないとは思いません。それは大昔も今も変わらない事実でしょう。

 

在位は天武天皇二年(673年)から朱鳥元年(686年)。


天武天皇が壬申の乱によって即位することにより、古代統一国家の形成が大きく進んだと言われています。つまり以下の三点です。


一、民と向き合う君主像の確立

二、それを支える神話や歴史の整理やまとめが進まる

三、推古天皇以来のシナに対する自立路線の継承発展

 

一は、豪族層を民の支配者から国家の役人へ転換させる律令官僚制の形成で、この時代にめざましく進展しました。

 

二については記紀の編纂の始まりをいいます。この事業には天武天皇自ら側近をアシスタントにとりかかり、天武天皇自身の作業は六八四年頃にはひとまず終わったようです。古事記の本文はこの時ほとんどできあがっていたというので、古事記のオリジナル本文は天武天皇が作ったとする意見まであります。


三については、三つあります。一つは、天智天皇の「近江令」の改正、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」です。自前の律令は独立国の証です。


二つ目は、独自の貨幣「富本銭」の流通です。シナの属国諸国では独自貨幣をつくるのが遅れ十世紀以降になりますが、日本では天智天皇の頃からデザインなしの「無文銀銭」が使われておりました。それをさらにこの使用をとどめて公の銅貨である「富本銭」の流通を促したのです(六八三年)。


そして三つ目、国名の変更、「日本」誕生です。おそらく六八五年頃から「日本」となったとみられています。それまでの「倭(やまと)」の字は卑しい意味があるとされています。それを太陽の恵みを最も豊かに受ける国、日の本、「日本(やまと)」と変えたのです。これは天智天皇の時代に唐に正式に外交通知もしています。

 

天武天皇の事跡をみると今の日本の基礎はここから始まったのだということがわかります。歴史教育では天智天皇のつけたしのような授業の記憶しかありませんが、天武天皇こそしっかり学ばなければいけない天皇ではないかと思います。

 

古事記、日本書記の編纂は天武天皇の発案によります。また、今に続く神宮(伊勢)の遷宮の発案も天武天皇です。

 

 

古事記の序文には、その編纂の趣旨が書かれていますがそれは「稽古照今」です。その意味とは、「過去に学んで、今の世の指針を見出す。」ということです。そしてさらに天武天皇の御言葉が書かれています。

「帝気紀や本辞は、我が国の起源由来と先祖が国土経営を重ねてきた大本である。ゆえに帝紀を撰録し、旧辞を究め明らかにして、偽を削り真実を定めて、後世に伝えたい。」つまり、古事記の序文には繰り返し国の始まりを学ぶ重要性が書かれていて、それが稽古照今、いわゆる歴史だというのです。

 

 

また日本初の天文台にあたる占星台を設けたのも天武天皇でここでは日本最古の記録である箒星が観測されています。天武天皇は、「天皇」という尊号の創始者だとも言われています。推古天皇の記録にもあるけれどもそれが書かれた日本書紀が天武天皇が編纂を命じたものであることから天武天皇の功績とされています。そしてこの天皇とは道教の天皇大帝からとっており、これは北極星を意味する天の支配者という意味で「天の命を受けた者」だといいます。常に天意を伺いその天意に沿って統治は行われる。そしてその天意を伺う機関が陰陽寮ということになり、それを設置したのが天武天皇であり、そこに天星台は欠かせないものだったのです。

 

 

記紀では、天皇の「無私」といえる立場や、すぐれた臣下の提案を聞き入れること(独裁にならないこと)を歴代の天皇の話で教えています。考えてみれば、日本の有名な武将には無私で家臣との合議で道を決める人が多くいます。完全に独裁と言われる人はいないのではないでしょうか?あの信長でさえ、家臣の意見を聞いていたのです。そうしたその後の教えのもとが記紀なのではないでしょうか。

 

天武天皇の時代には半島からの朝貢の記録が沢山あります。また帰化人についての記録も多く、帰化人が優遇されていたのにも関わらず問題ばかり起すので、今後は罪の通り処罰すると詔をされています。古代史を学ぶと古来から変わらぬ半島の人達の民族性も学ぶことが出来ます。こうした書物が作られたことで私達は1300年後の今でも昔のことを知ることができるわけです。


朱鳥元年(六八六年)崩御。


陵は、檜隈大内陵、奈良県高市郡明日香村大字野口にあります。

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「全現代語訳日本書紀」

「神話のおへそ」

 

竹田恒泰氏の「天皇の国史」では天武天皇に約3頁割いていますが、この時代は皇極天皇から持統天皇までの時代をセットで読まないとわかりずらいと思います。そうすると約10頁となります。この時代の重要性がわかるかと思います。

 

またこの時代については、多くの本が書かれています。ただし、基本は「日本書紀」と「万葉集」です。「ねずさんの奇跡の国日本がわかる万葉集」を読むと、天智天皇と天武天皇と額田王の関係性が変わってきます。他にない解説本です。

 

こちらも他にない日本書紀の解説書です↓

 

天智天皇に始まる敗戦復興の歴史、そこに記紀編纂開始もあった。著者の山本氏は続編として天武天皇のことも書きたいとおっしゃっていたので続編発刊されないか期待しているのですが・・・。

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記紀は何のためにあるのか?

 

 

 

 

 

 

 

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