孝明天皇の祭日は、先帝前三代例祭となります。御歴代天皇の数の多さから皇霊祭を定め、近四代の天皇の例祭のみを個別に行い、それ以前の御歴代天皇は十年、百年などの式年の年のみ祭儀を行うと明治十一年に定めたことによります。


第百二十一代孝明天皇は幕末の天皇、明治天皇の御父にあらせられます。

 

御名は統仁(おさひと)。

 

天保二年(1831年)生。

 

御父は仁孝天皇、御母は正親町雅子(おおぎまちまさこ)。

 

在位、弘化三年(1846年)から慶応二年(1867年)。

 

第十二代徳川家慶から第十五代徳川慶喜の最後の将軍までの時代です。

 

仁考天皇の崩御により統仁親王が践祚されたのは十六歳、満年齢では14歳の時です。その年には東インド艦隊司令長官ビッドルが日本に開国を迫り、各国の船が来航しています。


危機感を抱いた考明天皇は幕府に対し外国船に関する異例の勅書を出されました。外国船の状況報告と海防の強化を求めたものです。朝廷が外交上の意見をいうことは、徳川家康の時以来絶えていましたから、幕府は驚きました。しかし、幕府はアヘン戦争の二の舞を恐れ対策に苦慮しており、国内には反幕勢力や攘夷論者の台頭があり、朝廷を無視できなくなってきていましたので、言われるまま報告をしました。

 

七年後にはペリーが来航し翌年には日米和親条約が締結。そして同じ年に英国・ロシアとも和親条約が結ばれました。


徹底した偉人嫌いの考明天皇は鎖国を国是とし、朝廷と幕府が一和協力して国政を担うという保守的な体制の存続を深く望まれていました。尊皇で知られた水戸藩に密勅を送り、当初拒んでいた妹和宮の将軍家茂への降嫁を受け入れるなどして攘夷、外敵を追い払い国内にいれないこと、を追求したのです。和宮降嫁の条件は諸外国との条件の破棄でした。

 

尊皇攘夷運動(君主を尊び外敵を退ける)は長州藩を核とする倒幕運動(江戸幕府を倒す)へ展開し、公家の中からも体制の変化を求める尊攘派が現れますが、考明天皇は公武合体(朝廷と幕藩体制の強化)から引かず朝廷内の尊攘派を一掃。公武合体派の薩摩藩は会津藩と連携して長州藩を京都から追放し公武合体派の雄藩による参与会議が立ち上げられました。


ところが敵同士だった薩摩藩が密かに長州藩と同盟を結びます。さらにその年に公武合体派だった考明天皇が崩御されたことにより、倒幕の流れが加速し大政奉還、明治政府の誕生となるのです。


実は先を見通したお考えの攘夷だった。ということが理解しやすい動画です。是非ご確認下さい。↓


 慶応二年(1866年)十二月五日(西暦では1867年1月10日)徳川慶喜が将軍宣下を受けたその20日後の、十二月二十五日(1867年1月30日)崩御。睦仁親王が即位され明治天皇となりました。孝明天皇の祭日は、当時の西暦でそのまま決められており本日となっており、155年目の祭日です。ちなみに旧暦で十二月二十五日は今月の27日にあたっていました。


御陵は後月輪東山陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺の一画にあります。泉涌寺には室町時代以降の天皇の御陵がたくさんありますが、孝明天皇陵は、幕末・明治と江戸時代に抑えられていた天皇の権威の復権がとてもわかりすい別格な御陵となり泉涌寺の後ろの山の一画、一番奥にあります。仁考天皇までは泉涌寺内の後月輪陵の中に仏教式の九重塔での陵でしたが、古来の形に戻して寺の後ろに円丘で造られた御陵です。私がここにお参りした時、後月輪陵の仏教式で多くの天皇が押し込められているような形を見た後に後月輪東山陵に行ったものですから、その違いに圧倒されたものです。

 

 

 

1474406161846.jpg

 

1474407247562.jpg

 

1474407248400.jpg

孝明天皇は平安神宮に祀られており、本日10時から例祭が行われます。

 

考明天皇の時代の元号は、「弘化」「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶応」と七度改められており激動の時代を物語っています。火災や地震などの人災や天災による改元を求める声が増えたこともあったのです。


孝明天皇のイメージでよく出される 御製

あさゆふに
民やすかれと思ふ身の
心にかかる異国(とつくに) の船

 

 参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「天皇を知りたい」
「歴代天皇事典」

 

幕末の最重要人物であるにもかかわらず、幕末維新の志士についてはたくさん書かれていますが意外にも少ない孝明天皇伝。竹田恒泰氏が長年探究をされていていずれ本にするとのこと。竹田恒泰チャンネルでは何回も特番をされていますが、本にも期待大です。でもいつ本になるのかなあ・・・・。

 

なぜ孝明天皇が幕末の最重要人物なのに謎に包まれているのか?
ぜひ、竹田さんの孝明天皇論を聴いてみて下さい。

ほんの一部↓

 

 

 

 

また、孝明天皇を語る時に忘れてはならない光格天皇は、孝明天皇の御祖父にあたります。

 

光格天皇は、孝明天皇が10歳で立太子された年の秋に崩御されており、孝明天皇も影響を受けたと思われます。なんといっても宮家から天皇へ即位されたという責任がありましたから、次の仁考天皇と孝明天皇への影響も大きかっただろうからです。だからこそ、竹田恒泰さんも孝明天皇の研究を始めるにあたり光格天皇から始められたのだと思います。私がまだ天皇について良く知らなかった頃、初めて光格天皇の名前を知ったのは竹田研究会での竹田さんのお話からでした。


上皇陛下が光格天皇の事例の御研究を指示さされたとのニュースがあったとき、初めて光格天皇の名前を聞いた方も多かったと思います。それほど、日本では天皇についての教育がされていないのです。しかしここで何度も紹介している「復刻版初等科国史」にも光格天皇について書かれており、御製も載っていますが、これは御所千度参りがされたときの大飢饉を心配されたものです。

 

たみ草に露のなさけをかけよかし

世をまもりの国のつかさは

 

 

また光格天皇はこのような御製を詠まれたとも伝わります。この御製を詠むと孝明天皇の異国嫌いも頷けるのです。

 

神様の国に生まれて神様の道がいやなら外国(とつくに)へ行け

 

一方でこんな御製も詠まれています。

 

敷島のやまと錦に織りてこそ

からくれないの色もはえなれ

 

この意味は、「織物は日本らしい華麗な織物に仕上げることが大切です。そういう基礎があればこそ、外国から来た紅(くれない)の色も、はじめて生きてくるのです」というものです。(「日本とは和歌」より)

 

つまり、光格天皇は、ただやみくもに外から来るものを拒んでいるわけではないのです。これは古来から、稀人を歓迎する国であったことを考えればわかることです。我が国は渡来人を歓迎してきた国であり、そうすることにより古いものと新しいものが融合してきた国でもあるのです。そうした思し召しが孝明天皇にまで引き継がれていったのではないでしょうか。

 

陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前
産経ニュース2017.1.24 07:00更新

 

天皇陛下が約6年半前に譲位の意向を示した当初、最後に譲位した光格天皇の事例を調べるよう宮内庁側に伝えられていたことが23日、分かった。陛下が譲位の具体例に言及されていたことが判明するのは初めて。光格天皇は譲位後に権力から遠ざかっており、陛下が持たれている譲位のイメージに合致していた可能性がある。
光格天皇は江戸後期の1779年、閑院宮家から後桃園天皇の養子になり、第119代天皇に即位。1817年に皇太子だった仁孝天皇に譲位し、太上天皇(上皇)となった。在位中は朝廷の儀式を再興させるなど近代天皇制の礎を築いたとされる。陛下は光格天皇の直系にあたられる。
陛下は遅くとも平成22年7月には、相談役の宮内庁参与らを集めた会合、いわゆる参与会議の場で譲位の意向を示したが、関係者によると、その前後に、宮内庁幹部らに光格天皇の譲位の事例を調べるよう依頼されたという。
関係者の一人は「譲位後の光格天皇は、中世の後鳥羽上皇らと異なり、権力をふるっていない。譲位の直近の事例で資料が残っていることもあるが、陛下の思い描く譲位後のイメージと重なる部分もあったのではないか」と指摘する。
陛下の譲位に関する政府の有識者会議で、宮内庁側は陛下が譲位する場合、象徴としての行為を基本的に全て新天皇に譲られるとの見解を示し、「象徴が二元化することはあり得ない」と説明している。
専門家の間で懸念される譲位後の天皇と新天皇が併存する権威の二元化を否定した形で、こうした考えには陛下の意向が反映されているとみられる。
別の関係者は「陛下は天皇の歴史を誰よりもよくご存じだ。歴史から学び、譲位の意向を徐々に固められたのだろう」と話した。

光格天皇 第119代天皇。閑院宮典仁親王の第六皇子として誕生。1779年に即位し、中世以来の神事の再興や朝権の回復に努めたほか、後の学習院の基となる公家の教育機関を構想した。1817年に仁孝天皇に譲位。1840年に70歳で崩御されました。


光格天皇も孝明天皇も、ただむやみにグローバル化を嫌ったわけではないということも竹田恒泰氏はおっしゃっています。竹田恒泰さんの孝明天皇論を聴くと、そういう話もでてきます。

 

実は当時の世界情勢を知ったうえで開国に反対されていたことを孝明天皇の勅書から解いた「天皇の言葉」↓

 

一般にまで海外情報が入っていた江戸時代、孝明天皇が海外の事を知らないはずがない↓

 

 

グローバル化が進むとローカリズムが強まることが全世界的に目に見える時代となりました。特にコロナ禍前の1年前頃からそれが加速されて世界中で暴動が起こっている中でコロナ禍により、いやがおうにも世界の中の国というだけでなく、国内においても地元を意識せざるをえないような状況下となって、孝明天皇の先見性が実証されているのが今、この時だと考えています。

 

竹田恒泰氏の『天皇の国史』。孝明天皇の本、期待して待っています。

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎