本日は旧暦五月十一日ですが、文久二年五月十一日(1862年)、孝明天皇は「時局を御軫念御述懐(ごしんねんごじゅつかい)の勅書」を発せられました。

 

言葉の意味

時局:社会などのその時の情勢、世の中の成り行き。

軫念:天子が心をいためること。また、天子の心。
述懐:思いを述べること。過去の出来事や思いを述べること。

 

これは、嘉永六年(1853年)の黒船(ペリー)来航を機に孝明天皇がどう考え、どう行動されたのか幕末十年の動向をつぶさに語る詔で、天皇のおそばに仕える公卿に向かって発せられたものです。

 

とても長い勅書で、当時の天皇の認識や考えを知る第一級史料ですが、その全文と現代語訳、そして解説が「時代を動かした天皇の言葉」に記載されています。

 

孝明天皇というと、幕末に頑固に開国に反対されたというイメージがありますが、この勅書を読むと当時の世界情勢を知ったうえで開国に反対されていたことが分かります。意味もなく開国反対ではなかったのです。現在の社会情勢をみても、グローバリズムがいかに危険な考えであるかがわかるかと思います。今現在、鎖国のようなことは現実的ではありませんが、国のありかたとしての国際関係を考え直すうえで参考になるのではないかと思います。時代は変わっても国の在り方が変わらないということが最近の国際情勢で浮き彫りにされているからです。

 

国がなぜあるのか?国の存在とはどういうものなのか、また国防とは何かまで考えさせられる勅書だと思います。

 

 

文久二年のこの勅書が発せられた年は、一月に坂下門外の変が生じ、二月には公武合体のための将軍徳川家茂と皇女和宮の婚儀が執り行われ、四月には京都で薩摩藩の尊攘派の志士が同じ薩摩藩の公武合体派の藩士に殺害される寺田屋騒動が起きた年でした。この寺田屋騒動の二十日ほど後の五月十二日にこの勅書は発せられています。本書に、勅書の日付は十一日とありますので、翌日に発せらえたということでしょう。

 

以下、現代語訳

 

国を治める者が聖人でもなければ、国内が平安なときには、必ず外から災いが襲うと言われる。わが国は二百年もの間、天下泰平に慣れて、国内には遊惰の気分が満ち、外敵に対する備えを忘れ、甲冑は壊れ、刀は錆びて使い物にならない。そんなところに嘉永六年アメリカのペリー艦隊が軍艦四隻で浦賀に現れた。

しかし、それに対して幕府はどう対応してよいかわからず右往左往するばかり。

翌安政元年に、日米和親条約を締結すると、米国は次々に要求を強め、次には日本が開国して、条約(日米修好通商条約)を定めることを要求してきたが、幕府はそれを拒否できず、身分の低い役人を朝廷の意向を聞くために遣わしてきた。

私はその説明に誣罔(ふもう:いつわり)があることを知って、幕府の要求を退けた。

 

安政五年(1858年)2月、幕府は今度は老中の堀田正睦(まさよし)を遣わし、日米通商修好条約を締結せざるを得ない事情を説明して「ぜひ勅許をいただきたい」と懇願してきた。

私はよくよく考えて、一旦これを許可すると、わが国は外国人により穢され、国家の存亡が危うくなる。もしそのようなことになれば歴代天皇に対して申し訳が立たないと思う。

群臣に相談しても皆反対する。しかも幕府方でも、ひそかに反対であることを言ってくる藩もある。そこで幕府に大小名に時宜が適切か意見を聞くように言ってみても無視する始末。

どうしたらよいか考えていたら、朝廷では八十八名の延臣が「江戸幕府の方針に反対し、天皇の御意見に賛成する」との意見書を提出してきた。このまま幕府と対立すると、かつての後鳥羽上皇対鎌倉幕府の承久の変や、後醍醐天皇対鎌倉幕府の元弘の変のように朝幕間の争いが生じるかもしれないが、私は何もわが身のために反対するのではない。国の安泰を思うからである。

私は先と同様、勅許を与えずに、堀田正陸を江戸に返した。

 

私は勅使を伊勢・賀茂・八幡の三社に派遣して幣帛を奉り、外国人により国体が汚されないように、また国の民が平安であるように祈願した。どうか、かつて元寇を打ち破った弘安の役のように、外敵を討ち滅ぼすようにと。

ところが大老に井伊直弼が就くと、幕府は私の命令に反して、無勅許のまま米国との条約を強行締結した。そして文書をもって、「米国の要求が厳しく、回答の期日が迫り、やむをえないことでした」と言うだけ。私はその無礼な態度に腹が立ったが、厳しく責めることなく、三家や家門といった徳川家の人々や、大老を朝廷に召し出し、詳しく考えを聞こうと思ったのだが、井伊直弼は、尾張(徳川慶勝)、水戸(徳川斉昭・慶恕)、越前(松平慶永)などの実力者やその他優れた藩臣を蟄居・謹慎に処し、私の命令を聞こうとしなかった。

 

この後、第十三代徳川家定が亡くなった。次の称軍候補として名が挙がっていたのが、紀州藩主の徳川慶福であった。しかしまだ十二歳で幼かったため、将軍に任ぜず、しばらく様子を見たらどうかという意見があった。結果は慶福を強く推した大老井伊直弼の考えが通り、第一四代将軍家茂となった。

しかし、この将軍は幼弱のため全権は井伊直弼が握り、攘夷には熱心ではなく、そればかりか私が「正義之士」と思う前水戸藩主の徳川斉昭、藩主慶篤、尾張藩主徳川慶恕(後に慶勝)、越前藩主松平慶永(春嶽)、一橋慶喜らを謹慎あるいは登城禁止にする始末。

私はこのように幕府が混乱している隙に、外敵が何をするかわからないことを心配し、特命を幕府と水戸に下し、「大小名が協力一致して幕府を補佐し悪臣を除き、諸藩勤皇の志をもって外敵が隙を狙うことを防いでもらいたい」と伝えた。特に外敵に対し尊攘派が過激な行動に出て、朝廷と幕府が不和になることを強く心配した。

しかし、相変わらず幕府は弱腰で、外国勢力は要求を強める一方なので、このままでは「神州の正気」が失われ、恢復できなくなるかもしれない。

この局面を打開するのには、英雄が必要だ。三家三卿の中では、一橋慶喜がそれにふさわしい。慶喜を将軍にすれば、この難局を打開できるだろうと私は考えた。この私の考えを受けて行動した「草莽有志の士」がいたが、幕府はそのような反幕行動に対し監視を厳しくし、私の考えは思うように進まなかった。

 

時をおかず幕府から老中間部下総守詮勝が京に上り、幕府の命令で、天下の政に口出しする者はすべて捕縛して江戸に送り、幕府の方針に反した四大臣を仏門に入れ、政から遠ざけるといった強硬手段に出た。これによって正議の士はいなくなってしまった。

下総守はこのような行動に対して、次のような説明をした。「条約調印の事は先役堀田備中守のしたことなので自分の知るところではない。しかし、今条約を破棄するようなことをすれば、外国はわが国に不信感を抱き、彼らは怒りにまかせて何をするかわからない。またわが国はまだ敵を迎え撃つだけの軍備が整っていない。もし敵が攻めてきたら、それに伴い国内でも反乱が生じるかもしれず、そうなったらわが国は崩壊してしまいます。どうかここは幕府の考えに従い、しばらく世の中の動きをご覧ください。必ず年を経ずして外敵を打ち払い、神州の正気を恢復します。」と。

私は、やむを得ず、本心を抑えて、しばらく世の中の動きを見ることにした。

 

しかし、このような幕府の強硬策は、尊皇攘夷の志士たちを怒らせ、万延元年(1860年)三月三日、水戸藩の脱藩浪士らが井伊直弼を襲撃し殺害、いわゆる桜田門外の変が生じた。

私は、彼らの行動は乱暴ではあるが、懐中にあった書状を読むと、その考えは、外国の跋扈(ばっこ)に怒り、幕府の失政を命がけで換言するというものであり、私は以前からこのようなことが起こるのではないかと心配していた。

その後アメリカ人通訳のヒュースケンが殺害されたり、東漸寺にあったイギリス公使館が襲撃されたりしたことを耳にしているが、それらの原因は皆、幕府の攘夷派に対する強硬策にあると私は思う。そのほか外国の勝手な行動は、対馬をロシア艦隊が一時占拠したこと、条約締結国を二カ国(プロシア・ポルトガル)増やしたこと、英国人(公使オールコック)が兵庫から江戸まで陸路旅したこと、海岸の測量や品川御殿山に外国公館を建設するなどいろいろあったが、私はその一つ一つについて、それらがわが国にとって相応しくないものであると幕府に伝えた。

しかし幕府は「これらは大阪開市を延期するための一時の方便である」と言って、聞く耳をもたなかった。それどころか、さらに外敵を一掃するためには国が一つにならなければいけないと、私の妹和宮を将軍のもとに嫁がせるよう要求してきたのだ。妹を遠い江戸に嫁がせること、しかも先例のない武家に嫁入りさせることはまことに忍びがたいことであったが、幕府は内外の事情をしきりに謝罪し、「必ず十年以内には外国を一掃し、大名小名にもよく天皇のお考えを伝え、軍備も充実させますからお聞き届けください」と言うので、結局、和宮を降嫁させることに決めたのである。

 

この春一月十五日、和宮降嫁を画策した老中安藤対馬守信正は、尊皇攘夷の志士により襲撃された(坂下門の変)。幸い一命を取り留めたが、襲撃した浪士は皆殺されてしまった。

実行した浪士たちの思いは、井伊直弼を襲った浪士たちと同じであり、私は彼らを「勇豪の士」であると思う。これらの勇気ある人々が、その怒りをしばらく抑え得て、その勇気を蓄え、非常のときに使ってくれれば、どんな困難も打ち破ることができただろうに、「誠に愛(おし)むべき士」である。しかし、幕府はこのようには考えず、襲撃した残党を探索している。このようなことをしていたら国にとってよいことはなく、捕縛すれば、また攘夷派からの反撃を引き起こし、その争いが、いずれ大きな騒動を引き起こすのではないかと憂慮している。

また聞くところによると、このような事件があったにもかかわらず、将軍はその翌日、徳川家の祖先の霊廟に参拝したとのこと。側近の家臣は前日騒動があったばかりだから延期するように言ったが、将軍は予定通り実施したという。私はこの襲撃の危険のある中、祖廟参拝を実施したという将軍の度量の大きい決断は立派だと思い、次のように思った。

井伊直弼が尊攘派に殺害された庚申(かのえさる)三月以降、御所の警備が厳重になり、幕府は関白の邸にも警備の武士を配置し、御所に参内する時も武士が大勢護衛して非常時に備えているという。武士によりこのように御所が守られているということは(将軍の大胆さに比べ)私の憂い恥じることである。また思うに、先の三社奉幣以来、わが神州が異国に汚されたことを祓い清めようと朝晩祈祷し、また祈祷の後に和歌の奉納もいまなお行っている。どうかこの願いを神仏が御嘉納せられ、国内が平安になりますように。

 

そこで私は去年万延から文久に元号を改め、和宮を降嫁させ、公武一和を実現させた。

したがって幕府もこのような国難に際しては、以前の罪は許し、密勅に関わった近衛、鷹司、一條の三大臣の幽閉を許し、列藩の藩士の禁固を解き、勤皇の士で連座している者も放免するようにと、私は幕府にすぐに実行するようにと迫った。

幕府が約束したように、これからは公武力を合わせて、十年以内に軍備を充実させて、諸外国に国外に去るように、利害をもって決然と諭し、立ち去らないのであれば、すぐにでも軍を出して、国が一丸となって外敵の侵入から守り、敵を制圧すれば、どうして神州の元気を恢復するに難しいことがあろうか。

幕府が、相変わらず以前のように優柔不断の態度を続けるならば、わが国の疲弊は極り、戦わずして外敵に屈服することとなる。その例は、身近なところにあるではないか。インドを見よ。インドのように国を奪われたら、私は祖先に対してどう謝罪したらよいか、謝りようがないではないか。

もし幕府が私の命令に従わず、十年以内に外国打ち払いの兵を挙げなかったら、私は断然神武天皇神功皇后の先例に習って、公卿百官、諸大名を率いて、親(みずか)ら外敵を征伐する。あなた方は、私のこの思いをしっかり受け止めて、私に従いなさい。

 

 

この十年の間孝明天皇は、「外患調伏」のため頻繁に神々への御祈願をされ、勅書に記載の三社奉幣以外の神社にも宣命という和文形式の詔で祈願をだしています。

またこの翌年三月には、一か月の間に大神宮(伊勢)、石清水八幡、石清水臨時祭、神武天皇の御陵、神功皇后の御陵と五回も「外患調伏」の祈願をされています。特に神武天皇、神功皇后の御陵に祈願されていることは、勅書の最後で天皇皇后の親征を先例として外敵征討の御覚悟を示されていることに繋がっています。

 

この勅書からは、孝明天皇が朝廷と幕府が対立し国内が分断することを憂え、有能な志士たちの命を惜しまれ、一致団結することを望まれていることが分かります。そして、以下のような御製も残されています。

 

武士(もののふ)と

こころあはして

いわほをも

つらぬきてまし

世々のおもひで

 

(武士と心を合わせて岩をも貫いてしまいたい、いつの世にもあったわが国を守るという思いによって)

 

なおインドは17世紀に植民地化され、それは第二次世界大戦終了後の独立まで続きました。そのインドが植民地化された際にインド内の諸国の争いを利用されたことが知られています。

 

孝明天皇の思し召しが正しかったかどうかを、現在いうことはたやすいことだと思いますが、当時の先が分からない状態の中で孝明天皇が迫りくる外敵を前に国内の統一とわが国の平安と国民の安寧のために全身全霊をかけて祈られ戦われておられたことは確かです。

 

 

幕末の時代、10年間は日本が大きく変わった時代でした。今現在は、世界が大きく変わろうとしている時代です。

 

 

文久二年の状況を開設する竹田恒泰さん。孝明天皇について研究されています。いずれ本を出されるということ楽しみにしているのですが、まだまだ先のようです。

 

上記動画で、孝明天皇は常に佐幕で攘夷であり、だからこそ公武合体が生まれたと解説されています。

 

佐幕:幕府を佐(たす)ける

攘夷:夷(えびす:外国)をはらう(追い出す)

尊皇攘夷:天皇や朝廷を尊び国外勢力をはらう

公武合体:朝廷(公)と幕府(武)が一体となる

倒幕:幕府を倒す