本日は旧暦の五月二十五日ですが、この日は二つの天長節が重なる日です。後土御門天皇と霊元天皇です。戦国の世となり、後土御門天皇の即位時に行われたのを最後に大嘗祭が途絶えてしまいましたが、それを簡略化ながらも復活させたのが霊元天皇です。

 

嘉吉2年(1442年)のこの日、後花園天皇の第一皇子成仁(ふさひと)親王が誕生されました。


この頃は室町幕府の時代で、騒乱が続いている時であり、後花園天皇はそうした中で政治に無関心だった足利義政に戒めの詩を送った話が残されているような頃のことです。

 

そうした中で成長された成仁親王は満年齢15歳で親王宣下を受け、寛正五年(1465年)22歳で後花園天皇の譲位により即位されました(後土御門天皇)。

 

文正元年(1466年)に大嘗祭が執行されましたが、翌年応仁元年(1467年)に応仁の乱が起き、以降九代二二一年にわたり大嘗祭は中断しました。

 

京の惨状をご覧になられた後花園上皇は、出家され法皇となられています。

 

応仁の乱は、八代将軍足利義政の弟義視と、義政の子義尚が次の将軍の座をめぐって対立したのが発端の乱です。京都を主戦場に約十年に及んだため、後花園院と後土御門天皇は、義政の室町邸を仮宮として10年近くを過ごし、その後も北小路邸、日野政資邸などを転々としました。文明十一年(1479年)にやっと修理が終わった土御門内裏に帰ることができましたが、長い争乱の間に、皇室のご領地や公家の所領の多くが失われて、朝廷の財政は逼迫し、恒例行事や儀式の中止がよぎなくされました。またこの間に後花園法皇が崩御されています。


公家も多くは地方に疎開し大名に保護され、応仁の乱の後は荘園制は実質的に崩壊し将軍の支配領域は山城国一国だけになり幕府の権威も完全に崩壊。

 

ところがこのような乱世に入っても、足利義政は銀閣寺を建て東山文化が開化してもいますから、足利時代はやはり異常な時代でした。いくつもの乱や政変が起き、京は廃墟と化し、地方も騒乱に明け暮れ国全体が疲弊していくのです。

 

天皇は、応仁の乱の勃発以降何度となく譲位遁世の意向をもらすようになりました。それには日野勝光の専横に政務が思うようにいかなかったり、その妹の日野富子が天皇の廃位を図り延臣にも賛成する者がいるという風評が立ったりと色々と理由がありました。

 

明応二年(1493年)細川政元が明応の政変を起しました。この時の将軍足利義材を追放し、八代将軍足利義政の異母兄の子である足利義澄を第十一代将軍に擁立したのです。天皇の決めた征夷大将軍を勝手に追放したことに腹を立てた天皇はまたもや譲位の意向を示されました。

 

その時、甘露寺親長が「朝廷は将軍の禍乱からは超越しているべきであって、理非曲直に関わらず幕府の上奏に従うのが古今の慣例である」と天皇が政治的立場から意思表示すべきではない旨の諫言をすると天皇もこれを諒としました。ただし、この政変については了承されず、朝廷の職員録「公卿補任」では、義材から義澄への将軍交代は後土御門天皇崩御後に行われ、天皇(朝廷)無視が許されないことが明確にされました。


後土御門天皇は朝廷儀式復活のため自ら古典や有識故実の学習に打ち込み、地方へ離散した延臣達には京に還任するよう呼びかけ、一時再興した朝儀もありました。しかし、明応七年(1498年)には一切行われなくなり、さらに最重要儀礼で毎年行うはずの新嘗祭が崩御された年にはできなくなってしまいました。そうした中、明応九年(1500年)崩御されたのです。この時朝廷には葬儀費用がなく、葬儀は崩御後43日間できませんでした。そのためか、後土御門天皇以降しばらく火葬が続くことになります。


そして、後土御門天皇の朝廷儀式復活の願いはその後の天皇へ引き継がれていきました。

 

また、戦乱の中で存亡の危機にあった朝廷儀式や公事の再興に努力されていたこと、文芸・管弦・芸能においても多様な文化諸行事を小規模ながらも開催し近世的な宮中文化に繋がって行く新たな宮廷文化を形作っていったことが、その後の復興を助けました。途絶えていた朝儀を挙行するためには、過去の朝儀内容や式次第を主宰する天皇自身が学ぶ必要がありましたが、現存する東山御文庫本の『建武年中行事』は(建武年間に後醍醐天皇が先述した宮中行事)、後花園院が一条兼良本を書写し、朱書きの注釈を入れ後土御門天皇に進上したものですが、これに後土御門天皇は町広光の所持本をもとに校合(写本を比べて誤りなどを正すこと)を加えています。

 

朝儀とは、古代律令国家以来、朝廷が連綿と執り行ってきた国家的な儀式・儀礼であり、朝廷が担ってきた長い統治の歴史に裏打ちされた宮廷文化の知の集積です。

 

だからこそ、何百年もかけて少しずつ復活した朝儀(宮中祭祀)は御歴代の天皇の願いの結晶であり、そうした朝儀を縮小していいものだろうか?と考えるのです。伝統というのは一度なくなると復活させることが難しいことを歴史が示しているからです。


また乱世というなにを信じればいいのかわからないような時代に確固たる存在としてあったのがこうした伝統であり、その伝統を護り、護ろうとされる天皇であり、その伝統の建て直しの想いが後に戦国大名に広まっていったということを知ると伝統の維持が人の生き方までを支えるということに気づかされます。伝統を護ることで、伝統が人々を支えるのです。

 

つまり、このブログで何度もとりあげている「神は人の敬によりて威を増し人は神の徳によりて運を添ふ」と同じことではないかと思います。どんな物事も、単独で成り立っているものなど存在しないということです。何事も支えあっているわけです。

 

 

承応三年(1654年)五月二十五日は、後水尾上皇の第十六皇子識仁(さとひと)親王が誕生されました。

この頃は、後水尾天皇の次の明正天皇も譲位されており、異母兄、後光明天皇の御代でした。後光明天皇には皇子がなく識仁親王が養子となられましたが、この年に後光明天皇が崩御されたため、有栖川宮二代目となられていたやはり異母兄の良仁親王が中継ぎとして即位され(後西天皇)、後西天皇の第二皇子が有栖川宮家を継承されています。

兄の後西天皇から譲位され十歳で即位(霊元天皇)。父帝の後水尾法皇の院政が続きます。後水尾院の皇子女が、明正天皇、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と続いていました。

即位十八年後に後水尾法皇が崩御すると、親政を開始されています。同じ年には、第五代徳川綱吉が将軍になっています。

霊元天皇は、途絶えていた朝廷儀式の再興をはかり、朝仁親王の礼と中宮房子の立后を行いました。皇太子の称号もこの時復活させています。また朝仁親王の即位(東山天皇)にあたっては、室町時代の土御門天皇以来二百年以上途絶えていた大嘗祭の復活のため幕府とかけあいました。しかし援助がなく簡略な形で復活させました。(大嘗祭とは天皇に即位した後初めての新嘗祭。天皇一代につき一度だけの祭祀。東山天皇即位の時に実現。)


譲位にあたっては、幕府より院政を行わないよう釘をさされましたが、東山天皇はまだ十三歳でもあり、事実上の院政を強行しました。のちに政務を完全に東山天皇に委任しています。


父帝の後水尾法皇が院政が出来たのは、法皇の中宮であり二代将軍徳川秀忠の娘の東福門院が擁護されたため、江戸幕府も黙認せざるをえなかったのですが、霊元上皇までは院政を認められないと通告したのです。しかし霊元上皇はこれを黙殺しました。二十二年後、東山天皇が譲位され院政を始めてすぐ崩御されたため、次の幼い天皇の後見となり院政の再開もしています(中御門天皇)。


またこの時、東山天皇が願われていた第六皇子直仁親王を初代とする新宮家創設が決定していますが、中御門天皇は満年齢10歳ですから霊元上皇が動かれてのことでしょう。この8年後に霊元法皇から閑院宮家の宮号が下賜されています。

霊元天皇は、幼い頃から才気煥発で長じてからも英才ぶりを発揮したといいますが、傲慢さもあったそうです。また剛毅で我慢強く、夏は容易に扇を使わず、冬の寒さにもめったに火鉢を用いなかったといわれています。もしかしたら、そのお陰で長寿だったのかもしれませんし、またその強さが幕府との対応にも必要だったものなのでしょう。

御寺泉涌寺には、霊元天皇の御影(肖像画)がありますが、その絵には心の強そうな印象があります。

後土御門天皇から、霊元天皇までの間には八代の天皇がいますが、どの天皇も朝議再興に尽くされてきていました。しかしそれでも霊元天皇の時代に成された再興はほんの一部です。いかに途絶えたものを復活させることが難しいことかを物語っています。

 

しかし、こうした再興に向けた姿勢は天皇を支え、そうした天皇を権威とした戦国武将たちが統一されることへ繋がっていきました。戦国時代というと派手な武将の動きにばかり目が行きますが、武将たちが京都を目指したのは、都に天皇がいたから以外のなにものでもありません。

 

こうした歴史をみると、日本と日本人は支えとなる天皇と皇室が連綿と続いてきたからこそ困難な時代も乗り越えられてきたのだ、と改めて考えさせられます。まただからこそ、日本を滅ぼそうとする人たちが狙うのも天皇と皇室であり、国民との紐帯がじわじわと緩むように仕向けられているのだと。

 

 

参照:歴代天皇100話、
歴代天皇で読む日本の正史

室町・戦国天皇列伝


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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