本日は後鳥羽天皇の祭日ですが、和気清麻呂公が御隠れになられた日でもあります。
 
和気清麻呂公は護王神社の神様であり、本日は護王神社の例祭、護王大祭の日です。
護王神社のご由緒にはこうあります。
護王神社は京都御所の西側、烏丸通に沿いに鎮座する神社で、平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(わけのきよまろこう)をお祀りしています。
確かな創建年は伝えられていませんが、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。
江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。
明治19年(1866)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀りました。
その後、崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれています。
 
和気清麻呂公は、平安遷都の進言者であり、造営も担当された方だったのですが、実はそれだけではありません。その前に起きていた二代前の称徳天皇の御代での宇佐八幡宮神託事件において道鏡を皇位につけることが神意という御神託の真偽を確認するため宇佐八幡へ赴き御神託が偽物であったと報告したことで道教が天皇となろうとしたのを阻止したのです。この時道鏡の怒りを買い、護王神社に一緒に祀られている姉の広虫姫と一緒に流罪にされてしまいます。しかもこの時、名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名されたのです。しかし称徳天皇の崩御により道鏡は失脚し、清麿公と広虫姫は次の光仁天皇時代に都に戻され名前も元に戻ったのです。そして天皇の元活躍をされました。皇室を護られ、また都を造営されたからこそ京都御所の前に神社があるわけです。
護王神社には狛犬ではなく狛猪がおり、干支が猪年となった年には毎回話題となります。なぜ狛猪なのか?護王神社のHPに書かれています。
奈良時代・称徳天皇の御代のこと。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が法王となって絶大な権力を振るっていました。やがて道鏡は、天皇の位も奪おうと考え、「『道鏡を天皇にすれば天下は平和に治まる』と宇佐八幡よりご神託(神様のお告げ)があった」と天皇にウソを言います。
天皇は、ご神託が本当なのか迷いました。そこで、和気清麻呂公を呼び、九州の宇佐八幡へ行って確かめてくるよう命じました。清麻呂公は宇佐八幡へおもむき、ご神前に出て「真意をお教えください」と叫びました。すると、光り輝く宇佐の大神が現れ、「天皇の後継者には必ず皇族のものを立てなさい。道鏡のような無道の者は早く追放してしまいなさい」とご神託を下されました。
清麻呂公は都へ戻り、大神のご神託を天皇に報告しました。野望をくじかれた道鏡は激しく怒り、清麻呂公の足の腱を切った上、大隅国(鹿児島県)への流罪(るざい)としてしまいます。さらには、大隅国へ向かう清麻呂公を襲わせるために刺客を放ちました。
足の腱を切られ、立つことすらできなくなった清麻呂公ですが、皇室を守った大神に感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることにしました。そして、一行が豊前国(福岡県東部)に至ると、どこからか三百頭ものいのししが現れました。いのししたちは清麻呂公の輿(こし=乗り物)の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(約40km)の道のりを案内してくれたのです。清麻呂公が宇佐八幡での参拝を終えると、いのししたちはどこかへ去っていきました。不思議なことに、清麻呂公の足の痛みは治り、再び歩けるようになっていました。

護王神社には、和気清麻呂公の像がありますが、皇居周りのほぼ東北の鬼門の位置にも、和気清麻呂公の像があります。その像は長らく工事中で囲われていましたが既に工事は終了しています。
出身地の岡山県和気郡には和気神社があり、こちらも狛猪で銅像もあります。HPには清麻呂公絵巻があり、そのご生涯が物語となっています。また、宇佐八幡宮の末社にも護王神社が祀られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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