現在の国語教育は、日本語教育なのではないか?と考えています。言語は思考をつかさどりますから、その言葉を教える国語教育は歴史教育よりも重要です。ところが、国語教育がどんどん簡素化され、国語教育がきちんとされないのに英語教育の低年齢化が進んでいます。

 

その国で学ぶのが国語であり、外国人が学ぶものが各国語です。日本でしたら、日本語を学ぶのは外国人、日本人が学ぶのは国語です。同様に、歴史を学ぶ時、外国人が学ぶのは日本史であり、日本人が学ぶのは国史です。しかし、現在日本では、歴史の授業で日本史を学んでおり、国語教育は名ばかりで日本語を学んでいるのではないかと。

 

先日来何度もここで取り上げている「天皇家百五十年の戦い」の中で江崎道朗氏はこう書かれています。

「戦前も昭和天皇がいくらおっしゃっても、その真意を受け止める人があまりにも少なかったために昭和天皇が非常に苦しまれた。同様に、戦後も、私たち国民の側が皇室や天皇陛下が発する言葉を受け止める力が弱いのではないのか。そして私たち国民の側が陛下のお言葉を受け止める力が弱いから、孤高の戦いをせざるを得ない状況に皇室を追いやってしまっているのではないだろうか。」

 

上記の、戦前の昭和天皇の真意を受け止める人があまりにも少なかった状況というのは、真意を受け止める人もいたということになります。しかし戦後は、天皇と皇室の周りの状況が変わってしまったため、国民が天皇の言葉をしっかり受け止めなければならなかったのに、そうした力がなかった、つまり陛下は昭和天皇以上に苦しまれてより孤高な戦いを強いられていらっしゃるのではないかと思うのです。

 

その一因に、国語力の低下があるかと思います。

 

NHKのスクープで「生前退位」などという言葉が使用されて、世の中がその言葉遣いに騒然とならなかった、そんな言葉を使用しているNHKに世の中が激怒しなかったことは、国語力の破壊を意味していると思います。

 

そして、その後の天皇陛下の御言葉から、日本について考え天皇と皇室について考えようとせず、メディアの報道操作に従ってしまったことも同様です。

 

また「君が代」や「靖国神社」の問題もそうです。君が代の歌詞のどこにも軍国主義はありませんし、靖国神社は慰霊する場所でありその名前からも護国神社という場所からも軍国主義は出てきません。靖国神社を初めとする護国神社を軍国主義で糾弾することは、我が国の慰霊の歴史を冒涜することにしかならないのです。

 

私は歴史の学びなおしを始めた時、日本の一番の問題は歴史教育がしっかりされていないからだと考えていました。しかしそうではないのです。日々人は思考しますが、その思考に言葉は不可欠です。その言葉、日本語の仕組みが私達の考え方に深く影響を与えています。歴史教育がきちんと行われなくなってもその言葉の力で私達は、日本人としての思考力を失わずにこられたといっても過言ではないと思います。だからこそ、その言葉が破壊されたら、完全に日本は破壊されてしまいます。

 

言葉を守るのはその言葉を使っている人にしかできません。日本語を守るのは私達日本人にしかできません。

 

私は以前45年ぐらい前に出された母校の百周年記念冊子をみつけて昔の小学校について紹介しましたが、その時に国語教育にいかに力を入れていたかをあらためて知りました。義務教育が四年だった当時、その四年生には週に実質十一時間国語教育が行われていたのです。これはその後社会に出ていく子供たちがそれをすぐに社会で生かしたり、あるいは学びたければ自分で学ぶこともできるようにするためにしっかり教える必要があったのです。つまり国語さえしっかり学んでいれば他の学問はそこからスタートできるからこそ、国語教育をしっかり行ったわけです。

ある小学校の歴史…明治の時間割

ある小学校の歴史…明治の科目

 

明治期にも問題がなかったわけではありませんが、それでも論議の上何度も改善しながら教育を進めています。それがわかるのは、義務教育の仕組みが確立し整うまで何度も義務教育の仕組みが変わったことを知ったからです。ところが戦後、じわじわとそうした教育が改悪されてきました。

 

二年ぐらい前友人の子供の小学校六年生の国語教科書を見た時、その薄さと取り上げている中身の薄さに驚きました。どうしても小学校2、3年生ぐらいの教科書にしか見えなかったのです。

 

そうした中、齋藤孝さんが「こくご教科書 小学1年生」を出されていて話題となっています。

私もこの本を実際手に取って確認してきましたが、本当に素晴らしかったです。表紙こそ「こくご」というひらがなで書かれていますが、1ページ目から漢字にあふれた「学問のすすめ」から始まる教科書となっており、上記「国際派日本人養成講座」に紹介された通りとなっています。

 

これこそが「国語」教育だと思います。日本語教育ではありません。

 

この教科書で、齋藤孝さんが「昔の小学生も読んでいたから君たちも読めるよ」というようなことを書かれているのですが、それを読んで思い出したのはもちろん明治期の教科書です。

 

思い出すと、私が小さい頃、字が読めるようになって最初は絵本を読んでいましたが、小さい頃は吸収力が早いですからあっという間に絵本は読まなくなり兄の本や、あるいは家には本がたくさんあったのでそういうものをどんどん読んでいきました。またそれだけでは足らないと、子供文学全集を2、3種類揃えて(ただし重複している本は買わなかった)もらいましたが、読みたい本をどんどん選んで読んでいると習っていない漢字も沢山ありました。しかしそれでも読める本が多かったのは、仮名がふってある本が多かったからだと思います。気が付けば、現在本に仮名はふられなくなりましたが、そうすることによって実は読める本を減らしてしまうということを行っているのだと思います。

 

昔出版された本を探すと仮名がふってある本が多いです。実は、昔の本には仮名があるのが当たり前だったんです。仮名があることによって、大人も子供も知らない漢字があっても本が読めたわけです。

 

語彙を増やそうなどという本がありますが、普通に本をたくさん読めば語彙が増えるはずですし、難しい漢字や普段使用しない言葉が出てきても仮名があれば誰でも読めるわけです。読めない漢字の読み方を見つけるよりも、読み方が分かってその字を検索する方が圧倒的に早いです。検索がすぐできる現代ですから、誰でもすぐ検索できる時代ですが、そうした時代でも読めない漢字を検索するにはその漢字を出すために時間がかかるのは皆さんご存知の通りです。手書きで検索するにも、何度も書き直してやっと字が出てきたりしますから、読み方が分かる字との差は大きいのです。

 

また読めない字があるから読まなくなるという人もいるかと思いますが、そうした人でも仮名があれば本を読むことが出来ます。そうして本をたくさん読むことで読解力が身に着くでしょうし、いろんな考え方を知ることもできるかと思います。

 

私の子供の頃を思い返しても、自分で読む本はその時の自分が読みたいものでしたが、子供の世界は狭いものですから選択の幅も狭いですが、教科書に載っていたことで後にそれを思い出して読み直したり興味を持ったものがたくさんあります。そうしたことからみても、この斎藤孝さんの教科書の豊富な題材は教科書としてあるべき姿だと思います。そしてそれを可能にしたのは、漢字に仮名をふったことで教材の範囲が広まったからではないかと思います。

 

 

日本でノーベル賞受賞者が多いのは、我が国の言葉でほとんどの学問を学ぶことが出来るから、私達の独自の思考による発想力での発見があることこも大きく影響しているのだといいます。だからこそ、英語が公用語となっているインドでは、ヒンズー語などで教育の見直しをしていると聞いています。最近、算数の教育を英語で行おうとしているというニュースがありましたが、愚かだとしかいえません。

 

 

また、ネット社会の普及が子供への悪影響があるという人がいますが、どんなものにも二面性があります。読書がいいといってもその読む本によって悪影響があることは古今東西言われてきたことです。

 

友人の子供が小学1年生になった時、一番遠いエリアだったこともあり子供携帯が持たされるようになって、私にメールをしてくるようになりました。その最初の時、ほんの短いメールが全然、文、いえ言葉にもなってなかったのにほんの2、3日でちゃんとした文面で送ってくるようになりました。私はその文面から親が書いて送ったのかと思って、「うってもらったの?」と返信したら「じぶんがメールした」と返事がかえってきてその上達の早さに驚いたことがありました。私が小学校低学年の時、隣の市に住んでいた従妹とやりとした葉書があるのですが、その文面のまとまりのなさを考えると、時間差なく言葉をやり取りするということが脳に与える影響の大きさに気づかされました。そして、そうした短い文面を送るにも漢字があるのとないのとでは全然読みやすさが違います。友人の子供のメールもあっという間に漢字が増えましたが、それは漢字変換が表示されることにより、子供がその習得をするのも早かったのです。実際に書けるようになったのは遅かったとしても、読んでそれを取捨選択して使用できるようになったことは素晴らしいと思います。

 

一方で現在人気の「うんこ」シリーズのドリル、またそれにあやかって他にも類似のものが出ていますが、こうした教育書は酷いものだと思います。幼児は「うんち」、「おなら」、「はだか」、とかの言葉が大好きです。だから、絵本などでそうした興味あることを扱うのはいいでしょう。しかし、このドリルシリーズでは小学校の全学年のドリルで何の脈絡もないことに「うんこ」を絡めた出題をしています。計算ドリルや漢字ドリルもあるわけですから酷いものだと思います。これが国語力に結び付くと考えられますか?また意味のない言葉の文章が続くわけですからそこから思考が鍛えられると思えません。むしろ言葉を覚える子供の時に、このような意味のない言葉の文章で勉強することは悪影響ではないかと思います。

 

 

多分これだけ出ているということは、売れているからでしょう。つまり、これを買う親が多いことを表しています。これは、こうしたことはおかしいと思わない親が多いということです。

 

おかしいと思わないことそのものが、おかしいとしかいいようがありません。

 

これは多くの大人が思考停止に陥っているのではないかと思います。面白いから、子供が気に入っているから、とそれを子供に与えてしまうというのは、安易でそれが後の子供に与える影響まで考えていません。

 

しかし、普通の人はその勉強が後にどのような影響を与えるかまで考えなくてもしょうがない気がしなくもありません。

 

だからこそ、本来は学校教育がしっかりしなくてはいけないはずなのですが、齋藤孝さんが働きかけてもだめだったからこそ、この教科書が世に出たといいます。竹田恒泰さんも、歴史教科書を出される予定となっていますが、義務教育に期待はできません。だからこそ、こうした本でお子さんが学ぶことで、国語力が改善されていくなら素晴らしいと思います。

 

国語力がつけば自ずと思考停止はなくなると思います。なぜなら国語力があれば考えるはずだからです。

 

明治初期の義務教育が四年生だったとき、世の中に出た子供達が自ら学べるような国語教育が行われました。そして、齋藤孝さんの教科書では冒頭「学問のすすめ」によって学問を学ぶ意義が教えられています。小学1年生では意味が分からないこともあるかもしれませんが、わかることも沢山あるかと思います。そうしたことから、考えることが始まるでしょう。

 

 

思考停止に陥らないためには、知ることが重要です。

一生勉強といいます。

精進していきましょう\(^o^)/

 

 

 

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